島原の乱ー三万七千人の民衆の戦いと虐殺(3)

島原の乱ー三万七千人の民衆の戦いと虐殺(2)
のつづき

前回からの続きで、島原の乱、原城籠城戦についてです。
天草四郎を総大将に、武装した民衆老若男女3万7千人が立て篭り、周囲を囲む総勢12万の幕府軍を相手に戦いました。

一揆軍の士気は高く、場内では活発に武器弾薬が作られ、城外は天然の堀の構造で、
「湿地帯になっとって竹ば組まさんと歩かえんじゃった(祖母の弟談)」
と、かなり難攻不落の状態であったと伝えられています。

当初、九州の小大名だった板倉重昌が総攻撃の責任者に任命されましたが、板倉家の石高が1万石少しだったため、格式に拘る九州の諸大名が彼を馬鹿にして統制が全く取れず、軍としての指揮系等が殆ど機能しませんでした。その結果、無謀な突撃を繰り返しては一揆軍側に撃退されることを繰り返し(旧日本軍の万歳突撃みたいです)、戦いはかなりの長期戦になりました。

大名の石高という「格式」に拘る権力側の姿は、不思議と今に重なるように思うのは自分だけでしょうか。
少し飛躍しますが、戦前の日本は、陸士、海兵や旧帝国大学等を経た高等文官らの「格式」の高い学校を出たおエライさん達が国を滅ぼしたように思いますが、政財界、そして、どこかの法人等を見ても、今もあんまり内実は変わらないように思いますが、如何でしょうか。

話は戻りますが、将軍徳川家は、これでは幕府の威信が落ちて沽券にかかわると、「格式」も「作戦能力」も最強の、老中松平信綱を新たな攻撃責任者に任命します。彼は老中という幕閣最高ランクの職位、格式に留まらず、伊豆守だったので「知恵伊豆」と呼ばれるくらい、若い頃から頭が切れ過ぎる知恵者で評判だったようです。

攻撃側責任者が小大名から老中松平信綱に変更されたことで、籠城戦を攻めあぐねて、今まであまり乗り気でなかった諸大名も攻撃に俄然本気になります。働きによっては、大名ですら改易お取り潰しお家断絶になりかねないので、生殺与奪の権を握られた諸大名は完全に松平の作戦に従います。ここら辺も、今の省庁人事や党の公認人事を握った今の権力機構とのアナロジーを痛烈に感じます。

松平の作戦は冷徹かつ残酷で、「知恵伊豆」の名に劣らぬ非常に緻密なものでした。
先ず、無駄な戦力の消耗を避けるため、無謀な突撃攻撃を止めさせ、相手の糧食を完全に立つ兵糧攻めを徹底させ、一揆軍側が消耗するのをひたすら待ちました。
水を漏らさぬ布陣を幕府軍に展開させ、原城を徹底的に囲んで、城外との一切の連絡を絶たせました。

次に彼が打った布石は非常に狡猾なものでした。
新興国でプロテスタントであるオランダの艦船を籠城している原城に向かわせ、外国船がいよいよ助けにやってきたと、カトリック教国からの援軍を心待ちにしていた籠城の民衆に対し、オランダ艦船に容赦のない海側からの攻撃をさせました。
戦闘で疲弊し切った籠城軍が一縷の望みを託し、救いがやっと来たと歓呼したら、その艦船から砲撃されるのですから、士気を削ぐ上でこの作戦は非常に効果的であったと伝えられます。

次第に兵站、食料も尽き、疲弊していく籠城軍側、、、。
ある折、一揆軍側の犠牲者の胃の内容物を調べさせ、松平が胃内に海藻類しかなかったのを確認すると、愈々総攻撃の命令を発します。
長期持久戦後の総攻撃の結果、あっという間には籠城軍は陥落し、天草四郎をはじめ、生存していた老若男女はことごとく殺戮されました。

先の矢文が放たれたのはこの消耗戦の時期ですが、疲弊した一揆軍の司令中枢から、もはや勝ち目がないといち早く察知し、陥落前に幕府軍側に寝返る行動に出た者があります。
それが唯一生き残った一揆軍の指導層の立場にあった、山田右衛門作です。
彼は裏切り行為が発覚すると場内の牢に閉じ込められたため、尋問の目的もあり、唯一人生かされました。
この矢文の起草者、作者も山田右衛門作だと言われています。

原城は石垣に至るまで徹底的に原型を留めないほど破壊され尽くし、人々も高齢女性子ども問わず、3万7千人が悉く首を刎ねられ尽くしました。
この島原の乱の犠牲者は、一揆軍側だけで、その後現在まで日本最後の内戦である西南戦争全体の、明治政府軍、内乱軍合わせての犠牲者総数の3倍規模ですから、この乱の規模が如何に大きく凄まじかったかが窺い知れるかと思います。

後に、幕府から乱の原因になった苛政の責任を問われ、江戸幕府史上唯一、大名でただ一人、松倉勝家は切腹でなく斬首されました。
一揆軍陥落後、松倉勝家が処刑され、彼らの宿願は果たされたとも言えますが、あまりにも酷過ぎる犠牲でした。
権力側に寝返った山田右衛門作はその後、松平信綱の庇護のもと、逆にキリシタン弾圧側として余生を送ります。

この乱以後、江戸幕府は長い鎖国政策取ることになります。
反乱した一揆軍の主導的立場にありつつも、形勢が不利になると知るや一転して敵と内通して一身の安堵を図った山田右衛門作ー
彼は後年、八十歳代まで長命したと伝えられますが、裏切りに満ちた彼自身の生涯は、心の中は、果たして生き延びて幸せだったでしょうか、、、

写真、幕府軍布陣と一揆軍原城籠城図。南有馬の記念館にて、筆者撮影。

執筆者プロフィール

三木千八
三木千八
15歳の時、身内が末期がんで苦悶のうちに死んでゆく姿を目の当たりにし、基礎医学研究者になることを決意。
新潟大学理学部早期退学後、奈良先端科学技術大学院大学博士前期課程(細胞生物学専攻)修了。その後北海道大学大学院医学研究科博士課程(癌医学専攻)に進学し、同大学医学部付属癌研究施設、及び遺伝子病制御研究所にて基礎医学研究に従事。その後、臨床医学の道に転向し、博士課程中退、学士編入学を経て旭川医科大学医学部医学科卒業。卒後、北海道の中核市の基幹総合病院で臨床研修を受け、同院精神神経科勤務(緩和ケアチーム所属)、民間単科精神科病院副院長を経て、現在東京23区内で精神科・心療内科診療所を開設し、同院長。精神保健指定医。
バッハ、ベートーヴェン、ブルックナー、ショスタコーヴィチの音楽を好み、尊敬する音楽家はヴィルヘルム・フルトヴェングラーとエフゲーニ・ムラヴィンスキー。
清流や湖水での鱒釣りが心の憩いで、釣りの腕だけなら本業(精神科医)を上回っていると勝手に妄想しています。三男一女の父。東京都在住。

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