「神の選び」というのは、神のמצוה(mitzwāh)、すなわち「約束」に対して、応える意味で、「神の選び」を自覚するのですが、まあ簡単に言えば、「使命を自覚する」ということだと思います。
原点に戻って、「選び」の意義というのを、何点か、確認しましょう。
まず一点目。
今、神からの「約束」に応じることで、神の「選び」があると述べました。このmitzwāhですが。
これは、大きく二つあって、
一つ。質素、誠実に生きること。
二つ。困っている人を助けること。
布教とか、ユダヤ教を宣べ伝えることとかはないのです。
二点目。
「選民思想」というと、ユダヤ民族がとか、神に選ばれたアメリカ人がとか、世界に冠たる神の国・日本とか、そんな感じですが、
旧約聖書で、最初に選ばれたのは、「民族」ではなく、「一人」でした。
アブラハムですね。イスラームでは、イーブラヒ―ム(イブラヒム)です。
彼は今で言うメソポタミアのウルに裕福な家庭の子として生まれたのですが、おそらく「ところを追われ」、西に移動します。
ウルは、世界史で覚えさせられましたね。
「メソポタミア文明」。「ウル、ラガッシュ、ウルクの三都市国家」。「ウルク第三王朝の時、アッカド人に破れた」とか。覚えさせられました。
なんでいるんやろうと思ってたんですが、アメリカのイラン侵略のとき、サマーワの地図が出てきて、ああ、ウルクやとか、思ったりして。だから、あの丸暗記も、役に立ちましたね。
そして、ところを追われたアブラハムは神と契約し、カナンの地(今のヨルダン川西岸!うーん)に定住するのです。
後のイスラエル建国は、この神との契約ということで、ヨルダン川西岸(フィラスティーン、いわゆるパレスチナ)になされたわけです。そこに住んでいる人々を追い払って。
でも、神が最初に「選んだ」のは、「民族」ではなく、アブラハムという「個人」でした。しかも、「定住の場所」を失ったね。そこそこ豊かな人生を送っていたみたいですが、はやりところを追われるというのは、不安定であり、不安ですよね。
さて、神が約束した「カナンの地」は饑饉におそわれます。
約束が違うやん!
そして、アブラハムは、エジプトに逃れます。
ここまでは「創世記」に出てきますね。
モアブの荒野で、モーセ(モーゼ)が語った「申命記」26章5節には、
「わたしの先祖は、滅びゆく一人のアラム人であった。わずかな人を伴ってエジプトにやってきた」と出てきます。
また、「出エジプト記」には、はっきりと、イスラエルの民は、神に選ばれた民である。なぜならば、
最も弱く、奴隷である
というのが、理由なのです。
優れているからとか、全世界を支配する資格があるからではないのです。
最も小さくされ、最も虐げられているから、「神に選ばれた」のです。
これは、単にユダヤ人がと言うことではないでしょう。
普遍的に、「最もつらい思いをしている人の視座に立て、そうすれば、神の視座を得ることができる」ということでしょうね。
画像は、近隣の夕陽。
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