哲学入門15 – コラム:人間は“言葉の海”“対話の海”の中で鍛え上げられて初めて、自己を知り他者を知り、真の人間へと成長する【無料】
ソフィストと対峙したソクラテスは、対話によって普遍的真理を探求しようとしました。では、対話とは私たちにとって一体どんな意味があるのでしょうか。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
ソフィストと対峙したソクラテスは、対話によって普遍的真理を探求しようとしました。では、対話とは私たちにとって一体どんな意味があるのでしょうか。
ミルにとって自由とは人間の個性を開発し喚起し、それによって人間が相互に一層価値あるものとなる概念でした。今回は、そのマニフェストといってよい『自由論』をフーコーを先取りする「権力論」として取り上げてみます。
「人の良いオッチャンや、優しそうなオバハンや、礼儀正しい若者」たちは、事実とは異なる神話をもとにした外国人に対する「心のなかに潜む小さな憎悪」を持っている。だとすれば「ふつーの日本人」は、ヘイトスピーカーたちと地続きかも知れない。
市民が自由に集い、図書を媒介に会話を楽しんだり、時には結婚式や市民討論が開かれたり…。図書を介して新しい考え方や生き方に触れることもあるだろう。カルティベイトできる「知の広場」こそ図書館である。
古代ギリシアの都市国家アテナイは、言葉をもてあそぶソフィストの跋扈によって自滅する。相対主義を絶対的な金科玉条とした彼らに、本当に正しいことは何かと問い、徹底的に対峙したのがソクラテスである。本稿ではその足跡を追ってみたい。その1です。
文明開化の立役者である福澤諭吉は、西洋文明の礼賛者だったという評価がありますが、果たして正しいのでしょうか? 福澤の文明論を紐解くと、文明の本質とは、単純なイノベーションの礼賛ではないことが理解できます。
「平等」と「開放性」を軸とした「西洋」そのものが没落の危機に瀕している現在、安易な東西批判を乗り越え、人間そのものを大切にする仕組みをいかに立ち上げていけばよいのか。「生の世論」(大衆民主主義)は熟議を経て「洗練された世論」(熟議民主主義)へと転換する。
「万物の根源とは何か」という探求から哲学は始まったが、やがてさまざまな探求をする人間そのものへ焦点が移っていく。そこで登場するのがソクラテスだが、彼を語る前にソフィストたちの動向に目を向けたい。賢いとは、一体何なのだろうか。
命令に従うことは「私的」な領域であり、批判的に検討する立場こそ「公的」な領域だと主張するカントの「理性の公的使用」論を取り上げます。ここでは、啓蒙された人間の責任ある生き方と人間の自由について考えてみようと思います。
「門閥制度は親の敵でござる」とは福沢諭吉の言葉だが、能力や道理よりも血縁や地縁といった縁故が優先され、個人が圧殺されるどころか、社会が前に進まない。だからこそ、その負荷を否定し、「天は人の上に人を造らず」と宣言し、人間の平等・対等関係に基づく社会を構想したはずなのに、この国ではいまだに「縁故主義」が幅を利かせているのではないだろうか。