Lwp6 – 書評:野間易通『「在日特権」の虚構 増補版』河出書房新社、2015年。 ウソに基づく憎悪が人間を分断する社会であって良いわけがない。
「嘘も100回言えば本当になる」とはゲッベルスの言葉だが、ウソの蔓延には手間暇はかからない。しかし、その反駁には膨大な時間と労力が必要とされる。基本的事実の文書化・資料化に挑戦し見事に成功したのが『「在日特権」の虚構』。差別を圧倒する歩みは始まったばかりだ。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
「嘘も100回言えば本当になる」とはゲッベルスの言葉だが、ウソの蔓延には手間暇はかからない。しかし、その反駁には膨大な時間と労力が必要とされる。基本的事実の文書化・資料化に挑戦し見事に成功したのが『「在日特権」の虚構』。差別を圧倒する歩みは始まったばかりだ。
哲学はどこから始まるのだろうか。全ての探究はひとが驚いた時に始まるのである。その意味で哲学とは誰もが一度は経験したものである。第1章2節では、人間にとっての根源的な2つの問いと哲学の役割を吟味し、哲学とは何かを定義してみる。
読書への意欲はあるものの何から読めば分からないというひとに最もおススメなのが『鬼平犯科帳』シリーズ。圧倒的な面白さが、読書を習慣へと鍛え上げてくれます。池波先生の「人間とは何か」という探求は、あなたの人間観を深め、より世界へ関わっていくきっかけにもなるでしょう。
百田尚樹『永遠の0』に「感動」することは果たして「感動」することなのだろうか。人は人間や世界といったものごとの真相に迫ること・それを正しく理解することで感動する。虚偽に感動することは感動とは程遠い「感動という熱病」「感動病」なのではあるまいか。いい話を聞きたい、いい話で泣きたいという「感動」の「消費」は辞めるべきだろう。
第1章1節に関するコラム。哲学の最も広い意味合いは「原理原則」や「根本原理」の探求であるから、その学びを通してその人の人生哲学を構築することも可能である。しかし、安直でコンビニエンスな人生訓や自己啓発の如き有象無象とは程遠い立場である点には留意すべきであろう。
哲学の営みとは、こうした『あたりまえのこと』を成立させている世界をあえて『存在』とか『無』という『硬い言葉』を使って描きなおし、そこに新たな照明を当てることである。
第1章1節では、順を追って哲学とは何かを考察する。先ず、日常生活で使われる哲学と学問で使われる哲学という言葉の共通点と違いを確認する。両者に共通することとは、「何かを行うときの基本的な考え方、原理原則」ということだ。違いはその適応範囲である。
疑うことなく考えることのない世界は楽チンかも知れませんが、それでも「みんながそう思っているのだから、なんでおまえはそう思わないの?」っていうのばかりなってしまうのは少し窮屈ですよね。「確実性」を求めるデカルト的省察(疑い)は、何の手続きをも経ないで「確実性」と「思いこむ」感性よりは、少し彩り豊かな世界を、僕たちのまえに見せてくれる筈です。
放佚無慙に居直りを決め込むのでもなく、極端な「かくあるべし」の奴隷になるのでもない在り方は可能なのだろうか。歩きながらいくつかのオルタナティブを考えてみたい。
私たちは、それが不当であると理解しつつも、昔から続いている慣習だから変えてはならないと思うとき、それを「常識」として捉え、その非常識さを考えないようにすることがよくある。しかし、常々不満を口にする対象である「非常識」は果たして「常識」なのだろうか。今一度問うべきであろう。