Salt33 – 僕を他人の名前で呼ばないでください
この数ヶ月、「旧優生保護法」下で、20年少し前まで、日本で行われていた不妊手術強制の事実が、ニュースで少し採り上げられるようになってきました。この問題について、少し考えたいと思います。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
この数ヶ月、「旧優生保護法」下で、20年少し前まで、日本で行われていた不妊手術強制の事実が、ニュースで少し採り上げられるようになってきました。この問題について、少し考えたいと思います。
けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるが、あの最初に場合にもあのように、知恵を愛求し(哲学し)始めたのである。ただしそのはじめには、ごく身近な不思議な事柄に驚異の念をいだき、それから次第に少しづつ進んでは …
まさに、「臨床の場」の「こちら側」にいるので、いろんなことが見えてきますね。とても、貴重な経験です。
僕は「ウジケさんは知性偏重」と職場でフルボッコされるのですが、人間らしさととは日常生活のふとしたやり取りに育まれるのかも知れません。レヴィナスを導きの糸にしながら。
今年は、中之島の大阪市中央公会堂が出来てちょうど100年目。日本の近代建築を代表する公会堂ですが、実は、とても特徴的な部分があるんです。
ヘーゲルは弁証法を繰り返すことで絶対知を認識できると考えたが、その歩みとしての進歩は一直線なのでしょうか。
「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」。『啓蒙の弁証法』から考えてみたいと思います。
夏から秋にかけては、日本近・現代仏教の特徴とも言える、「お盆」「お彼岸」の時期がきて、お墓参りとかされる人も多いかと思います。その時、立派なお坊さんに来てもらって、「廻向」してもらう。では、廻向ってなんでしょう。
小さき者を放っておかないことは人間の義務である--。本書は、犠牲と義務の観念を手がかりにヴェイユの一貫した「他者を生かすため」の思想を浮かび上がらせる待望のヴェイユ論です。夏休みの読書にいかがでしょうか?
何度も映画やテレビになった人気の「銭形平次捕物控」。400話近い大連作です。なぜ作者、野村胡堂は、これを書こうと思ったのか。当時、全国紙の政治部長でもあった彼は、何を「平次」に込めたのか?