Lwp25 – 単なる善良さはたいして役に立たぬ
善良な市民として生きることは賞賛されるべき生き方です。しかし、その社会に対してひたすら従順であることと同義であるとすれば、問題が多いのではないでしょうか。「苦しい」という叫び声を抑圧する善良さは害悪と言えそうです。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
善良な市民として生きることは賞賛されるべき生き方です。しかし、その社会に対してひたすら従順であることと同義であるとすれば、問題が多いのではないでしょうか。「苦しい」という叫び声を抑圧する善良さは害悪と言えそうです。
「鳴かず飛ばず」という慣用句があります。例えば、「芸人のAさんは、10年以上も『鳴かず飛ばず』。売れない芸人でしたが、『B』という番組をきっかけに売れ出し」云々というように、よく使われますね。
でも、もともと「鳴かず飛ばず」は、まったく違う意味だったのです。
今月のまとめ書評は、「動物」に焦点を当ててみました。動物の知性はあるのかどうか。それは人間のモノサシに依存しています。そして進化とは何でしょうか? 理解を深めるための3冊をご紹介します。
最近、「美辞麗句」の言葉と、背広にネクタイの男たちの「空疎さ」に辟易しています。
釜ヶ崎にも、ほんとに、橋下市長のころから、数人グループ(なぜか、背広の男たちはグループを組むことが多い)が出没し、もとは、日雇い労働者を労働現場に送りだすために、狭い地域に11の鉄道の駅を作ったのですが、それが交通至便だから、「副都心」となるかも、都構想の「合区」の区庁となるかも、という目算で、集まってくる真面目な、うさんくさい人たちです。
真面目で、整理された、いでたちや言葉は、心には届きません。
ソクラテスの対話は現代社会にとってどんな意味があるのでしょうか。「無知の知」の概念を確認した上で、現代でも決して色あせない対話の意義を考えてみようと思います。
正法・像法・末法という、いわゆる「三時」というのが、日本仏教ではしばしば語られます。でも、数字がつく仏教概念(法数、ほっすう)は、経典解釈者が、後の時代に便宜的に作ったものであることが多いのです。
大学院で、仏教論理学の文献講読の授業で、担当教授が言った言葉が忘れられません。「法数は、生き生きとした生活の言葉ではなく、『これテストに出るぞ!』という便宜的な言葉です」
専門のキリスト教学・宗教学のコラムを始めました。最初は言葉の話題です。私たちに馴染み深い諺は実は聖書に由来しますが、その意義を考えてみようと思います。
高橋源一郎のオルタナティブを創造せんとする、人びとを繋ぐ「ことば」への復興という試みは、党派性を超えた、人間主義の探求であるのではないか。「ぼくたちは、ぼくたちの『民主主義』を自分で作らなきゃならない」。
アメリカでは、全土にわたって、銃規制を求める高校生のラリー(デモ)が行われ、マルチン・ルター・キング牧師の「ワシントン行進」、ベトナム反対運動の平和行進以来の、数十万人が街頭にでました。そのなかで、1人の高校生のスピーチが、全世界で話題になりました。
短いですが、アップ・トゥ・デートで、少し考えてみました。
ソフィストと対峙したソクラテスは、対話によって普遍的真理を探求しようとしました。では、対話とは私たちにとって一体どんな意味があるのでしょうか。