FF5 – 「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと——飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その5)
今回は、浪江町とどもども、原発から離れていたけれど、「警戒区域」に入り、さらに今も「帰還困難区域」を村内に有する浪江町についての、開拓の歴史をひも解きます。資料を見ていたら、知り合いの仲間の名前があちこちにでてきたりして、胸が痛いです。これだけがんばってきたのに。(連載第五回目)
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
今回は、浪江町とどもども、原発から離れていたけれど、「警戒区域」に入り、さらに今も「帰還困難区域」を村内に有する浪江町についての、開拓の歴史をひも解きます。資料を見ていたら、知り合いの仲間の名前があちこちにでてきたりして、胸が痛いです。これだけがんばってきたのに。(連載第五回目)
啓蒙とは、何かを知っていることや知識が多いことではなく、「知る勇気をもて」、「自分の理性を使う勇気をもて」ということ。カントの哲学の一つの本質とは、人間が自由に独立独歩で思考して生きていくことではないかと考えてみました。
差別是正の活動から始まったポリティカル・コレクトネス。さしあたりの不正義を回復していく話し合いを求めていくことを、「ポリコレ疲れ」として切り捨てる感覚こそ人間の存在に対して不誠実なのではないか。
京都の北、岩倉には「目なし橋」(差別的な言葉ですが、固有名詞であり、またその歴史をこれから語りたいので、そのままにします)という橋があります。
この橋の北側には、差別を受けた人たちが、また、その身内が、何とか生き抜こうとした歴史的痕跡が刻まれています。
第四回目です。浪江町、飯舘村などの、原発から離れて町づくり、村づくりを置きなってきた地域の歴史について、その開拓の始まりの苦労を述べてきましたが、今回は、その後の開拓の労苦、そもそも、その地が農耕について、とても困難を伴う場所であったこと、などについて述べます。また、国家によって捨てられた人々=棄民の歴史を考えたいと思います。
日本は、もはや工業立国ではないこと、日本はもう成長社会に戻ることはないということ、日本はもはやアジア唯一の先進国ではないということ。下り坂を下りながら「子育て中のお母さんが、昼間に、子どもを保育所に預けて芝居や映画を観に行っても、後ろ指をさされない社会を作る」しかない。
一年ほど前まで、記者をしてたのですが、大震災以降、東北に通い、そのなかで、なんとなく、取材が少しましになったかなぁと思うようになってきたんです。
もちろん、今までなんやったんやろ、という自責の念が当然伴いますが。
連載第三回目です。福島第一原発事故で、大きな被害を被った地域が、実は、戦後開拓で、必死の思いで、つくられた場所でした。今回は、その「必死の思い」、「どのようなご苦労」が、開拓に伴ったかを記します。
第2章では哲学の起源とソクラテス・プラトン・アリストテレスといった古代ギリシアの哲学者たちの思索を概観し、「対話」に意義を論じようと思います。第1節では、哲学的探求が誕生した時とその意義を、第2節では、最初の哲学者たちの思索(万物の根源とは何かの探求)を紹介します。
1安保法制以来繰り返されてきた懸念ですが、抑止力で平和を担保しようという発想に立つ限り、終わりのない軍拡へ突き進むことになってしまう。これで平和で安全な社会が構築出来る筈がない。