哲学入門17 – コラム:相手はたかだか「ソフィスト」である【無料】
武器は無知の知という自覚と普遍的な真理への憧憬のみ。軽挙妄動のソフィストたちと戦ったソクラテスは、「特別な人間ではない」普通のひとでした。戯論に抗うことの意味を考えてみました。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
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武器は無知の知という自覚と普遍的な真理への憧憬のみ。軽挙妄動のソフィストたちと戦ったソクラテスは、「特別な人間ではない」普通のひとでした。戯論に抗うことの意味を考えてみました。
ソフィストと対峙したソクラテスは、対話によって普遍的真理を探求しようとしました。では、対話とは私たちにとって一体どんな意味があるのでしょうか。
「人の良いオッチャンや、優しそうなオバハンや、礼儀正しい若者」たちは、事実とは異なる神話をもとにした外国人に対する「心のなかに潜む小さな憎悪」を持っている。だとすれば「ふつーの日本人」は、ヘイトスピーカーたちと地続きかも知れない。
3月30日に行われた前川喜平さんの学習会の続きです。1人ももれなく教育の機会を受けることができる社会を作るためには、どのような意識と実践が必要なのか
前川喜平さんというと、「森友問題」以来、なぜか「時の人」という感じなのですが、実物のご本人は、そんなことは、どこ吹く風。ひょうひょうと、でも、とても明確に、ご自身の道を歩んでおられます。
『法華経』安楽行品には、法を説かなくていい人には、法を説く必要はない、という「安楽行(安楽な修行)が説かれています。しかし、それは、『法華経』の他の品、たとえば、勧持品や不軽品と矛盾するのではないでしょうか?
「万物の根源とは何か」という探求から哲学は始まったが、やがてさまざまな探求をする人間そのものへ焦点が移っていく。そこで登場するのがソクラテスだが、彼を語る前にソフィストたちの動向に目を向けたい。賢いとは、一体何なのだろうか。
「如説修行抄」には、つぎのようにあります(p.503)。ーー天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なりーー『法華経』安楽行品には、四つの安楽な修行によって、安楽な境涯を得ることができるという、とても「安楽」な仏道修行法が説かれています。これは、果たしてどうなのでしょうか?
なぜ、優秀な人材が、道理のみならず、法令まで無視して、権力への忖度を続けるのだろうか。それが結果として国民を欺く暴挙(=公僕としての自らのレゾン・デートル自体を否定することともイコール)になろうとも。
神話や宗教的権威に頼らず、考えたり悩んだりする人間の力によって世界を理解しよう――人々がそう思ったとき、哲学は誕生しました。世界認識や人間理解への問いを転換した哲学の誕生の意義について考えてみました。