freak21 – 「難」って「何」やねん?/椎地四郎殿御書 2/2【無料】
「椎地四郎殿御書」のメイン・テーマである「法華経の行者」と「難」について、少し考えてみます。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の’If 6 was 9’の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
もとは、彼の1967年の(UK、アメリカでは翌年1月)のアルバム”Axis: Bold as Love”の中の一曲ですが、映画「イージー・ライダー」の中でとても印象的に使われました。
1967年といえば、大学紛争やベトナム反戦運動などの「異議申し立て」が全世界に広がっていたころ。若者たちは、「ティーチイン」と言って、そこら中に座り込んでは、議論を戦わせていました。
また、既成の生き方から離れて(ドロップ・アウト)、ヒッピーなどの「違う生き方」を目指す動きも広範にありました。
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。
「椎地四郎殿御書」のメイン・テーマである「法華経の行者」と「難」について、少し考えてみます。
「椎地四郎殿御書」の背景と、真言宗について少し考えてみます。なぜ、「真言亡国」なのか?
「建築界のノーベル賞」プリツカー賞を2014年に受賞した建築家、坂茂さんは、難民シェルターや自然災害の被災者向けの仮設住宅、恒久住宅、さらに、コミュニティホールの建設で、同賞を受けました。坂さんを動かすモーティべーションの原点は?
「鳴かず飛ばず」という慣用句があります。例えば、「芸人のAさんは、10年以上も『鳴かず飛ばず』。売れない芸人でしたが、『B』という番組をきっかけに売れ出し」云々というように、よく使われますね。
でも、もともと「鳴かず飛ばず」は、まったく違う意味だったのです。
正法・像法・末法という、いわゆる「三時」というのが、日本仏教ではしばしば語られます。でも、数字がつく仏教概念(法数、ほっすう)は、経典解釈者が、後の時代に便宜的に作ったものであることが多いのです。
大学院で、仏教論理学の文献講読の授業で、担当教授が言った言葉が忘れられません。「法数は、生き生きとした生活の言葉ではなく、『これテストに出るぞ!』という便宜的な言葉です」
民謡(踊りも)に「大黒舞」という、とてもポピュラーな曲があります。おめでたい正月とかに歌われたり、踊られたりするのですが、室町時代の「御伽草子」に、そのルーツを語る物語があります。どのようなものでしょうか。
宗教的典籍が語られたときと、今とでは時代がかなり変わっています。また、宗教の言葉が生きているものならば、語られた相手によって、言葉も違って使われているでしょう。そこに注意することって、とても大事です。
ちなみに、それを完全に無視することを、「原理主義」といい、たとえば、トランプ大統領の支持基盤の一つ、アメリカのキリスト教原理主義は、『旧約聖書』の「天地創造」を歴史的事実と考え、神は、6日で、太陽も銀河系も、宇宙も、また恐竜の化石(恐竜ではなく、恐竜の化石も大地とともに作ったと考える)も、すべて作ったと、科学を否定します。
『法華経』安楽行品には、法を説かなくていい人には、法を説く必要はない、という「安楽行(安楽な修行)が説かれています。しかし、それは、『法華経』の他の品、たとえば、勧持品や不軽品と矛盾するのではないでしょうか?
「如説修行抄」には、つぎのようにあります(p.503)。ーー天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なりーー『法華経』安楽行品には、四つの安楽な修行によって、安楽な境涯を得ることができるという、とても「安楽」な仏道修行法が説かれています。これは、果たしてどうなのでしょうか?
東日本大震災で大きな打撃を受けた岩手県沿岸には、とても珍しい「神楽」があります。「廻り神楽」です。普通、神楽は神社に奉納されるもの。でも、この神楽は、家々を回るのです。どういう神楽でしょうか?また、なぜ、回るのでしょうか?