freak31 – 女人禁制 「山」編 その1
大相撲の地方巡業の時、土俵上で倒れた市長の救命のために、土俵にあがった女性たちに対して、「女人禁制」の「大相撲の伝統」に照らしてどうなのか、という話がありました。少し、「女人禁制」について考えてみましょう。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の’If 6 was 9’の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
もとは、彼の1967年の(UK、アメリカでは翌年1月)のアルバム”Axis: Bold as Love”の中の一曲ですが、映画「イージー・ライダー」の中でとても印象的に使われました。
1967年といえば、大学紛争やベトナム反戦運動などの「異議申し立て」が全世界に広がっていたころ。若者たちは、「ティーチイン」と言って、そこら中に座り込んでは、議論を戦わせていました。
また、既成の生き方から離れて(ドロップ・アウト)、ヒッピーなどの「違う生き方」を目指す動きも広範にありました。
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。
大相撲の地方巡業の時、土俵上で倒れた市長の救命のために、土俵にあがった女性たちに対して、「女人禁制」の「大相撲の伝統」に照らしてどうなのか、という話がありました。少し、「女人禁制」について考えてみましょう。
「女人禁制」ということが、相撲界を中心に話題になっていますが、ちょっと角度を変えて考えてみました。
「単衣抄」の御文から少し離れて、「仏のことばを証明する」ということについて、いろんなことをつれづれなるままに考えたいと思います。
「単衣抄」の「日蓮・日本国に出現せずば如来の金言も虚くなり」ということばは、どのように解釈するか、それは、自分の信仰の有様を試す試金石となるかもしれません。
幸・不幸と並べて語られますが、一体、人生って、そんな二面性しかないものなのでしょうか。希代の漫才師に起こった出来事を通じて、なんとなく考えたいと思います。
前に、「天国」ってどこにあるか、について少し考えましたが、では「浄土」ってなんでしょう?
前から考えている、これから私たちが目指す社会はどのようなものかについて、「宣言」(もちろん、パロディですよ)みたいなものを考えてみました。
様々な宗教にとって「天国」はどこにあるのでしょう。「天国」を説くと一般的に考えられている宗教の代表、キリスト教ですが、原典に遡って、それを見てみると、「雲の上の楽園」ではないようです。
上田俊成の『雨月物語』は、一般的には妖怪変化の類いがでてくるあやかしの文学作品と思われていますが、貧困と身体障がいのなか、苦労をし、また、時には、放蕩の限りを尽くし、また、上方の医師であり、有名な文化人のパトロンであった木村蒹葭堂のサロンに出入りし、本居宣長を痛切に批判した上田秋成が、単なるあやかしを書くはずはありません。そこには、合理的社会批評の目がありました。今回は、『雨月』の一節から、「前世の業」とかいうものは、仏教としてもおかしいぞ、という、秋成の宿業論批判をご紹介します。
自分を語るだけでは、自分は大きくなりません。自分のなかに、他者の経験、人生をいれるためには読書もですが、「聴く」ということが、とても大事ではないか。それをゴータマ・ブッダの行動から考えてみます。