哲学入門16 – 第2章「哲学の起源と開かれた対話」2.4 ソクラテス(2)
ソクラテスの対話は現代社会にとってどんな意味があるのでしょうか。「無知の知」の概念を確認した上で、現代でも決して色あせない対話の意義を考えてみようと思います。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
筆者は2003年4月から2016年3月まで足かけ13年あまり、創価女子短期大学において「哲学入門」を担当してきた。哲学とは自分自身の認識の更新であり、そのことが生きる標(しるべ)に練りあがる。哲学を「学ぶ」のではなく「哲学する」こと念頭に授業を創ってきたが、本連載では、紙上でそれを再現してみたい。常に考え学び続けていくことの一つのきっかけになれば幸いである。
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ソクラテスの対話は現代社会にとってどんな意味があるのでしょうか。「無知の知」の概念を確認した上で、現代でも決して色あせない対話の意義を考えてみようと思います。
ソフィストと対峙したソクラテスは、対話によって普遍的真理を探求しようとしました。では、対話とは私たちにとって一体どんな意味があるのでしょうか。
古代ギリシアの都市国家アテナイは、言葉をもてあそぶソフィストの跋扈によって自滅する。相対主義を絶対的な金科玉条とした彼らに、本当に正しいことは何かと問い、徹底的に対峙したのがソクラテスである。本稿ではその足跡を追ってみたい。その1です。
「万物の根源とは何か」という探求から哲学は始まったが、やがてさまざまな探求をする人間そのものへ焦点が移っていく。そこで登場するのがソクラテスだが、彼を語る前にソフィストたちの動向に目を向けたい。賢いとは、一体何なのだろうか。
「万物の根源とは何か」という探求から哲学は始まったが、やがてさまざまな探求をする人間そのものへ焦点が移っていく。そこで登場するのがソクラテスだが、彼を語る前にソフィストたちの動向に目を向けたい。賢いとは、一体何なのだろうか。
神話や宗教的権威に頼らず、考えたり悩んだりする人間の力によって世界を理解しよう――人々がそう思ったとき、哲学は誕生しました。世界認識や人間理解への問いを転換した哲学の誕生の意義について考えてみました。
第2章では哲学の起源とソクラテス・プラトン・アリストテレスといった古代ギリシアの哲学者たちの思索を概観し、「対話」に意義を論じようと思います。第1節では、哲学的探求が誕生した時とその意義を、第2節では、最初の哲学者たちの思索(万物の根源とは何かの探求)を紹介します。
哲学とは徹底的に自分自身で考えること、そしてその省察が他者に開かれている営みのことだが、それは「歌うようにではなく真に話すこと、目を覚ますこと、酔いから覚めること」(レヴィナス)。常に「眠りの商人」の誘惑を退けなければならない。
哲学は一体、何の役に立つのだろうか。役に立つという自体、実際のところ役に立たないことが多いが、それは「何のため」という意識の欠如があるからであろう。そうした根本的なところから考察するのが哲学だが、ここではその存在意義や学ぶ意義を紹介し、1章をまとめておきたい。章末に資料あり。
文系諸学が「役に立たない」として切り捨てられる現状だが、大切なことは、いったい、何のためにそれを行うのか、という意識であり、それを根本から考えるのが哲学である。本稿では哲学の存在意義と学ぶ醍醐味を紹介したい。
哲学とは結局「言語」をもってしか遂行し得ない営為だからこそ、例えば、「おもしろい」だとか「難しい」と思ったことを言葉として明確にして自己に向き合わせておくことが大切になってくる。「鉛筆とは何か」といった考えるまでもないと自明に思っていることを改めて点検してみることも哲学的省察への第一歩となる。