freak26 – 浄土って何?【無料】
前に、「天国」ってどこにあるか、について少し考えましたが、では「浄土」ってなんでしょう?
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
前に、「天国」ってどこにあるか、について少し考えましたが、では「浄土」ってなんでしょう?
上田俊成の『雨月物語』は、一般的には妖怪変化の類いがでてくるあやかしの文学作品と思われていますが、貧困と身体障がいのなか、苦労をし、また、時には、放蕩の限りを尽くし、また、上方の医師であり、有名な文化人のパトロンであった木村蒹葭堂のサロンに出入りし、本居宣長を痛切に批判した上田秋成が、単なるあやかしを書くはずはありません。そこには、合理的社会批評の目がありました。今回は、『雨月』の一節から、「前世の業」とかいうものは、仏教としてもおかしいぞ、という、秋成の宿業論批判をご紹介します。
「椎地四郎殿御書」のメイン・テーマである「法華経の行者」と「難」について、少し考えてみます。
「椎地四郎殿御書」の背景と、真言宗について少し考えてみます。なぜ、「真言亡国」なのか?
正法・像法・末法という、いわゆる「三時」というのが、日本仏教ではしばしば語られます。でも、数字がつく仏教概念(法数、ほっすう)は、経典解釈者が、後の時代に便宜的に作ったものであることが多いのです。
大学院で、仏教論理学の文献講読の授業で、担当教授が言った言葉が忘れられません。「法数は、生き生きとした生活の言葉ではなく、『これテストに出るぞ!』という便宜的な言葉です」
宗教的典籍が語られたときと、今とでは時代がかなり変わっています。また、宗教の言葉が生きているものならば、語られた相手によって、言葉も違って使われているでしょう。そこに注意することって、とても大事です。
ちなみに、それを完全に無視することを、「原理主義」といい、たとえば、トランプ大統領の支持基盤の一つ、アメリカのキリスト教原理主義は、『旧約聖書』の「天地創造」を歴史的事実と考え、神は、6日で、太陽も銀河系も、宇宙も、また恐竜の化石(恐竜ではなく、恐竜の化石も大地とともに作ったと考える)も、すべて作ったと、科学を否定します。
『法華経』安楽行品には、法を説かなくていい人には、法を説く必要はない、という「安楽行(安楽な修行)が説かれています。しかし、それは、『法華経』の他の品、たとえば、勧持品や不軽品と矛盾するのではないでしょうか?
「如説修行抄」には、つぎのようにあります(p.503)。ーー天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なりーー『法華経』安楽行品には、四つの安楽な修行によって、安楽な境涯を得ることができるという、とても「安楽」な仏道修行法が説かれています。これは、果たしてどうなのでしょうか?
日蓮大聖人の「寂日房御書」にこういう一節があります。
「法華経の行者といはれぬる事はや不祥なり、まぬかれがたき身なり」とあります。「不祥」という言葉が、当時、どのような響きを持っていたのか、それを知ると、この一節のもつ、切迫感がより迫ってきます。
日蓮大聖人の「寂日房御書」には、過去の勇気ある人の例として、樊噲・張良・平将門・藤原純友の4人の名前が挙がっています。この模範とすべき、4人とはどんな人であったか、それを考えると、日蓮大聖人の視座、どこから物をみていたか、が、分かります。