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哲学入門71 – コラム:人間の全人性を回復させる思想家・バタイユ【無料】

ニーチェの影響を受け、生と死、そして、聖なるものと穢れたものという観点から、人間と社会を捉えなおそうとした思想家がバタイユ(1897年-1962年)である。その思想史的な影響は今なお強いが、それは、バタイユが近代の生産主義的な人間観を否定したことに由来している。

市民革命と産業革命以降に成立する近代社会の特色とはいったい何だろうか。それは、労働と理性を人間の本質とみなす人間観によって成立している社会ということである。人間が生きるということは、死を視野に入れることでその全体が成立するが、近代社会において死は隠蔽されている。生の側面にリソースを注ぎ、理性をもったヒトが労働に励み、飽くなき生産を繰り返していくことが奨励される社会である。宗教(キリスト教)の影響力の後退は、死より生を高調する契機になっていることは言うまでもないし、生産というキーワードに注目すれば、資本主義もマルクス主義も近代という枠の中から抜け出すことはできていない。

確かに、近代社会がもたらした文明化と個人の自立という基本的な考え方は、人間が他者と協同して快適に生きていくことを可能にさせたことは否定しがたい。しかし、生産が重視される社会においては、非生産性という契機は、基本的に排除されてしまうため、人間が本来持ち合わせている豊かな全体性は、いびつなものになってしまう。その齟齬が顕になったのが20世紀の悲惨ではなかろうか。生よりも死を注目し、生産よりも蕩尽の意義を発見したバタイユが注目される所以である。

例えば、祭りに注目してみよう。祭りでは気前がいいことが称賛されるのは、洋の東西を問わないことである。人類学者のマルセル・モースは、祝祭時の先住民族の過剰なまでの贈与の習慣をとりあげ、それを「ポトラッチ(蕩尽)」と呼んでいる。バタイユはその民族誌を取り上げながら、近代社会の限界を浮かび上がらせていくのである。理性・労働そして生産をキーワードとする近代社会には、蕩尽ほど非理性的、非労働的、そして非生産的な事柄はない。しかし、人間の全体性という意味では、それも人間の側面なのである。その意味では、繰り返しになるが、近代社会が「生かされている」人間は、一歩的な側面だけを注視された人間観とその社会で生かされているということになろう。

なにか世間を揺るがせるような凶悪犯罪が起こったとき、ワイドショーのコメンテーターは、必ず次のような言葉で事象を説明しょうと試みする。すなわち「(彼あるいは彼女の)こころには闇があったのです」と。そうすることで、私たちとは非連続な非人間による凶悪犯罪として説明するのである。しかし、「こころには闇があったのです」はすべての人間に当てはまる事象ではなかろうか。犯罪者だけが凶悪であったり、動物的であったり、非理性的であったり、非生産的であったりされること、あるいはそう設定されることによって、私たちは安心しているのである。しかし、人間とはそう単純なものでもなかろう。

 ところで、倫理的な断罪のある一定の形体において、否定するという逃避的なやりかたがある。要するに、こう言うのだ。もしそこに怪物どもがいなかったなら、このさもしさはなかったろう、と。この荒っぽい判断においては、怪物どもは可能性から切除されている。暗に、可能なものの限界から、かれらがはみ出たことを弾劾しながら、まさしくかれらの過剰こそ、この限界を決定するものであることを、見とどけようとしないのである。おそらく、言語活動が一般大衆にむけられている限りでは、この子供っぽい否定も有効だろうが、実際にはなにものも変化させてはいないのだ。それに、残忍さの絶えざる危険を否認することは、肉体的な苦しみ危険を否認することとおなじく、むなしいことである。残忍さをただ月なみに、人間的なものはなにもないと勝手にひとが創造する党派や種族の特性であるとするなら、残忍さの諸結果はほとんど予防できないものとなるだろう。


 もちろん、目ざめは、可能なおぞましさに対する絶えざる意識を要請するものであり、それを回避しようとする(あるいは、時が来れば、それと対決しようとする)手段以上のものである。目ざめは、ユーモアとともに、また詩とともに、はじまるものだ(ルッセの作品の少なからぬ意義は、同時にユーモアも肯定的に示されており、作品からにじみ出ているノスタルジーが、けっしてみちたりた幸福へのノスタルジーではなく、詩のさまざまな陶酔の動きへのノスタルジーである点にある)。
(出典)バタイユ(山本功訳)「死刑執行人と犠牲者(ナチ親衛隊と強制収容所捕虜)に関するいくつかの考察」、『戦争/政治/実存 ジョルジュ・バタイユ著作集14』二見書房、1972年、46-47頁。

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