哲学入門74 – コラム:「答えのない学び」という喜び

先日、受験生が「机を離れて見えた世界」で「答えのない学び」を体験したという新聞記事に目が止まりました(『朝日新聞』2019年9月15日付)。

記事のリードは次の通りです。

※「受験生、机を離れて見えた世界は 中高生ら『答えのない学び』体験」、『朝日新聞』2019年9月15日(日)付。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14178811.html?iref=pc_ss_date

 受験勉強に追われ、学ぶ目的を見失いそうになっている中高生に向けたサマープログラム「学びを取り戻せ!」が、8月17日から4日間、東京都目黒区の東大先端科学技術研究センターで開かれた。机上で知識を詰め込む受験生の夏に、あえて机を離れ、「答えのない学び」から学びの本質を考えようという初の試みだ。
(出典)「受験生、机を離れて見えた世界は 中高生ら『答えのない学び』体験」、『朝日新聞』2019年9月15日(日)付。

詳しくは、新聞記事をお読みいただきたいのですが、ロボットや量子力学など、最先端の研究に触れてみたり、視覚障害者と街を歩き、その実際を体験してみたそうです。社会活動家の湯浅誠さんと一緒に、山谷の日雇い労働者が暮らした部屋へを訪れた体験授業では、二人一組でそこに住んでいたいた人のことを考えたとのことです。

先端研究にふれることも、あるいは日本社会の現場へ実際に赴くことも、どれも塾や学校では習わないことばかりで、参加者にとっては大きな刺激となったそうです。

勉強すること自体が悪いわけではないのですが、反復運動のようにひたすら一つの正答解を求める受験勉強はたしかにしんどく、その営みは、例えば社会や学問の実際とは程遠い、ある意味ではバーチャルリアリティの世界です。

バーチャルとしての閉じた世界が学ぶ「意義」を奪いるとでも言えばいいのでしょうか。

本来「学ぶ」ということは「生きる」意味をつくり、その生きる世界を拡大させていく営みです。ヘレン・ケラーとサリバンとの出会い、そしてその学びを想起すれば、それは一目瞭然です。しかし、そうした学びの喜びとは裏腹に、勉強の実際が学びという契機をいびつなものにしてしまっているように思えます。そしてそのことは自分自身の体験からよく理解しています。

その意味では、ひと夏の刺激は、「知識はあるがリアリティーがない」優秀な受験生たちにとっては最良の刺激になったようで、こうした刺激の必要性を強く感じています。

さて、この記事を読みながら思い出したのは、大学で非常勤講師をしていたときの思い出です。筆者は、哲学と倫理学といったいわゆる一般教養科目の講座を大学で担当していました。その時分、受講生たちからよく寄せられた声が次のようなものです。すなわち、

「哲学(あるいは倫理学)って、『答えのない』学問なんですね」

というものです。

哲学を研究する立場から言えば、哲学とは正確には「答えのない」学問というわけでありません。しかし、「自分で答えを掴み取れ」という哲学という学問のスタイルは、答えを待ちわびている学習者からしてみれば「鵺」のように映ってしまうのでしょうかね。

何らかの問いを技術的に紐解いていけば、必ず一つの正答解が導き出すことができる。あるいは、自分で導いた解答は、解答集と照らし合わせれば、「よっしゃあ! 正解」へと導かれる反復運動を繰り返しすぎると、「解答集はありません。自分で答えてみてください」と言われみれば、キョトンとしてしまうというところでしょうか……。

しかし、キョトンとするところから、気分を入れ替えて、あるいは、自分自身で創意工夫をしていくなかで、自分自身の答えを手にとっていくことは、それはそれでしんどい営みかも知れませんが、そこに、バーチャルリアリティとしての閉じた学習世界とは異なる、開かれた世界の新しさがあるのではないかと僕は考えています。

「哲学(あるいは倫理学)って、『答えのない』学問なんですね」

たしかに、そうですから、自らの手でそれをちょっと掴み取ってみませんか?

いかに真剣に考えてみたところでも解答集がないのであれば、それは独りよがりな誤答かも知れませんよね。誤答を気がかりにすることにリソースを注ぎすることは受験勉強を想起させますけれども、それであれば、その掴み取ったそれを、友人たちと相互に検討してみてはどうでしょうか?

そこから新しい世界は始まるはずです。

世界とはいったい、何からできているのでしょうか?

地学を始めとする理科の科目はその断片を教えてくれることには間違いありません。様々な原子から成立していることを勘案すれば、物理学はなんらかの法則を教えてくれるかも知れません。

それらの知を駆使しながら、何らかの物質からできている「世界」は、物質とはほど遠い、人間の感覚からも形成されているのも事実です。そこに関わってくるのは生者だけでなく死者も存在します。そして時間というスパンでみれば、現在だけでなく、過去と未来へも思いを寄せる必要があります。俯瞰してみれば、歴史学や社会学、あるいは、量子力学の知見も参照しないと解答できないかも知れませんよね。

そして、それらを総合的に考えてみれば、その問いに対しては、自分自身で答えていくほかありません。考える材料が不足しているのであれば、そこから新しい学びが始まります。

その学びこそバーチャルリアリティの閉じた学習とは異なる、「世界」へと関わっていく「学び」へと開かれていくのではないでしょうか。

自分自身で問いと格闘することは、ちょっとだけしんどいかも知れません。それは馴れていないからです。しかしその創意工夫は、喜びに満ちた営みであることをお約束いたします。

「哲学(あるいは倫理学)って、『答えのない』学問なんですね」。

いえいえ、自分で考えてみてください。

表紙の写真は、筆者の職場の大きなサボテンです。最近になってサボテンに花が咲くことを知りました。知らないことを知るのは楽しく、このところサボテンについて勉強をはじめました。

執筆者プロフィール

氏家法雄
氏家法雄アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者
氏家法雄 アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者。1972年香川県生まれ。慶應義塾大学文学部文学科(ドイツ文学)卒。立教大学大学院文学研究科組織神学専攻後期博士課程単位取得満期退学。鈴木範久に師事。キリスト教学、近代日本キリスト教思想史、宗教間対話基礎論を専攻。元(財)東洋哲学研究所委嘱研究員。千葉敬愛短期大学(倫理学)、創価女子短期大学(哲学)、創価大学通信教育部にて元非常勤講師。論文には「姉崎正治の宗教学とその変貌」、「吉野作造の『神の国』観」、「吉満義彦の人間主義論」など。ええと「うじいえ」ではなく「うじけ」です。

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