FF14 – 浪江町・飯舘村にいってきました その4
6月24日は、いよいよ飯舘村のかたがたとの交流でした。釜ヶ崎のおっちゃんたちの当事者活動である、紙芝居劇むすびのかたがたと一緒に、舞台に登りました。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
福島に通い続けています。友人や仲間もたくさんできました。
でも、福島については、最初の段階からそこに住む人々について、また、その人たちの「思い」について、見過ごされてきたという気持ちがぬぐえません。放射線量とかの数値が。確かに、数値も大事なんですが、人を忘れてはいけないと思うんです。
「福島にまだ住み続けているなんて、おかしい」とかいう反原発の人の声も、時々、目にします。
でも、原発事故の被害者のかたがたが、もっとも「反原発の証人」ではないかと思うのです。その人たちの気持ちを少しでも自分のものとすることが、一番最初になすべきことではないかと思うのです。
それで、FUKUSIMA FACTと題して、そこに住む人たちの”FACT”を考えたいと思います。
6月24日は、いよいよ飯舘村のかたがたとの交流でした。釜ヶ崎のおっちゃんたちの当事者活動である、紙芝居劇むすびのかたがたと一緒に、舞台に登りました。
6月22日から福島県の飯舘村と浪江町に行ってきました。前は3月に行ったのですが、今回は、思いがけない出会いもありました。「その2」からの続きです。
6月22日から福島県の飯舘村と浪江町に行ってきました。前は3月に行ったのですが、それから3ヶ月で変わらないこともあれば、変わったところもありました。「その1」からの続きです。
6月22日から福島県の飯舘村と浪江町に行ってきました。前は3月に行ったのですが、それから3ヶ月で変わらないこともあれば、変わったところもありました。
連載九回目、最終回です。自分たちで作った村、そして、「日本一美しい村」まで育て上げた村。それがフレコンで有名になってしまいました。
村民のこころは揺れます。帰るべきか、実際はほとんど除染はなされていないので、帰らざるべきか。
そして、私たちは、どのように行動すべきなのでしょうか。
第八回目。「日本一美しい村」となった飯舘に、放射性物質が降り注ぎました。今や、平地という平地に、フレコンが山積みになっています。今回は、現地の人たち以外には、あまり知られていない「除染」の実際について、述べます。
連載七回目です。農業自体が不可能と言われていた飯舘村。しかし、開拓農民を中心とする村民のちからは、それを可能とし、さらに、創意工夫で、全国最先端のコミュニティづくりも、次々と成功させていきました。そして、「日本一美しい村」となったのです。
しかし……。
そもそも、農業が困難だった飯舘村の地に、戦後開拓で入ってきた人は、豊かな土地を膨大な労苦によって育てていきました。そして、さまざなアイデアで、村のコミュニティをも、育てていきました。飯舘村は、コミュニティづくりで、全国の最前線に躍り出たのです。連載六回目です。
今回は、浪江町とどもども、原発から離れていたけれど、「警戒区域」に入り、さらに今も「帰還困難区域」を村内に有する浪江町についての、開拓の歴史をひも解きます。資料を見ていたら、知り合いの仲間の名前があちこちにでてきたりして、胸が痛いです。これだけがんばってきたのに。(連載第五回目)
第四回目です。浪江町、飯舘村などの、原発から離れて町づくり、村づくりを置きなってきた地域の歴史について、その開拓の始まりの苦労を述べてきましたが、今回は、その後の開拓の労苦、そもそも、その地が農耕について、とても困難を伴う場所であったこと、などについて述べます。また、国家によって捨てられた人々=棄民の歴史を考えたいと思います。