FF14 – 浪江町・飯舘村にいってきました その4

個人的には、飯舘村は、震災の年から通い続けています。まだ、除染が各地で始まってないころ、飯舘村草野で、試験除染が行われていたころからです。

しかし、ふとしたきっかけで、飯舘村のかたがたの前で、劇を演じ初めてもう6回になりますか。

そのきっかけというのが、

10年ほど前から、釜ヶ崎で、「紙芝居劇むすび」のかたがたと親しくしています。

紙芝居劇むすびというのは、紙芝居と朗読劇を一つにしたもので、紙芝居をめくる人がシナリオを読むのではなく、役柄を、出演者一人一人に割り振り、真ん中で紙芝居をしながら、複数の出演者が朗読劇をするというものです。

アドリブで浪曲がでたり、歌がでたり、踊りがでたり、狂言がでたり、面白いですよ。

最初は、ファンというか、観客の一人だったのですが、いつの間にか、助っ人で、演者の一員になりました。

そうこうしているうちに、東日本大震災が起こり、宮城県大崎市で、終末期の患者さんの在宅医療をしている「穂波の郷クリニック」という医療機関の人たちと、僕が親しくなり、

なんと、穂波の郷クリニックが、紙芝居劇むすびと同じ年の、しかも7月7日、むすびは7月14日に産声を上げ、末期の患者さんやご家族による、劇をしているということから、

穂波の郷クリニックの劇団、「ほなみ劇団」と「紙芝居劇むすび」が、宮城へいったり、釜ヶ崎にいったりの、交流が始まったのです。

そうこうしているうちに、もともとは、日本を代表する老舗フェアトレード団体、ネパリ・バザーロさんが、震災支援として、陸前高田で、伝統の椿油の製油所を復活させたことがご縁となり、

僕が、ネパリさんと繋がり、
ネパリさんが、原発で避難している地域の方々(最初は南相馬、そして、飯舘村)のかたがたを、温泉にご招待している、その手伝いを始めたのです。

この温泉ご招待は、とても意義のあるもので、どうしても、原発事故被害にあわれたときの、生業の状況とか、家族の状態とかで、補償とかに差がでてくる。どうしても、分断されがちになる。

それが、裸のつきあいで、ゆっくりと話をする場を提供することで、原発事故以来、なんとなくよそよそしかった村民の人たちが、忌憚なく話ができるようになってきたんです。

僕も、手伝いをするうちに、いろんなかたと親しくなりました。

そうしているうちに、むすびのメンバーに劇をして欲しいということになりました。

最初、三回は、ほなみ劇団に、末期の肺ガンで、酸素吸入しながら、舞台に立っていた新田さん(男優さん)、そして、記憶が5分しかもたないので、台本もなにもかもすっ飛ばして、絶妙のアドリブをする90歳を超えた小菊おばあちゃんがいたので、

ほなみ劇団とむすびの合同メンバーで出ていました。
やがて、新田さんがなくなり(余命を3倍以上延ばして)、小菊さんも大往生されたので、

むすび単独で、飯舘村のかたがたの前で、劇をすることになったのです。

避難されている仮設で一度、そして、去年の3月11日(!)には、出来たばかりの飯舘村のコミュティセンターで(避難指示はまだ出ていましたが、昼間ならば、村に入れるのです)、追悼式に呼んでいただき、公演したのです。

今回は、まだ多くが避難されえてはいますが、7年たち、避難先に引っ越しを決意されたかたや、帰村を決意されたかた、まだ、決められないかた、

より複雑になったので、
ネパリさんは、近場の温泉にご招待し、その分、ゆっくり語り合ってもらおう。また、出し物を見るだけではなく、村民のかたがたに、何か隠し芸を披露してもらおうということになったのです。

これが大成功。
この日のために、オカリナの演奏グループを結成して、今後とも続けていこうとされている女性たちが出てきたり、

ハーモニカの名手が、腕前を披露したり、そして、なんとなんと、「バナナのたたき売り」。

バナナのたたき売りは、啖呵買という大道芸の代表で、門司が発祥の地ですが、源五朗という、名手が山形にいて、なんと、その山形系を次ぐ、正統バナナのたたき売りでした。

場内、大爆笑。

浪江町・飯舘村にいってきました その4

そして、紙芝居劇むすびのメンバーで、福島第一原発事故のあと、「除染作業員」に応募して、三次下請けだっので、放射線管理、ホールボディカウンターなどは、きちんとしているところにいかれたOさん。

そして、その作業でもうけたお金をコツコツためて、栃木で、高齢者支援の事業を始められた!のです。

その支援事業のなかで、知りあった高校生マジシャンも連れていてもらったので、そのマジシャンも、大受けでした。

そして、なんと、トリが、Oさんも久しぶりに参加して、また僕も加わっての紙芝居劇むすびによる、かなり「むすび流」に変更した「おむすびころりん」。

酸素ボンベをおいた新田さん、アドリブ連発の小菊さんも、飯舘村のかたに大人気でしたが、

なぜか、むすびが、飯舘村のかたがたに人気なんです。

 

それは、ある意味、故郷を失ったむすびのメンバーと、同じく故郷を原発事故で台無しにされた飯舘村のかたがたの思いが、

深いところでつながってるのかもしれません。

僕は、「おむすび」の役でした。

おむすびは転がります。そして止まりません。

 

僕は、舞台からおりて、観客席を飯舘村に見立てて、アドリブで叫びました。

「長ーい長ーい八木澤垰の上り坂で止まるかと思ったら、途中でトンネルが出来てて、止まらないよー。石ポロ坂まで来てしまった。
弾みがついて、草野から山津見神社まで来てしまったよー。
草野は、いつの間にか、見知らぬ建物が一杯建って、山津見神社は、火事で焼けたけど、再建して、きれいになったなぁ。
ここの狛犬は、山犬で、日本でも珍しいんだ。
でも、止まるかと思ったら止まらないよー。

あっ、豊栄の開拓碑だ、大変な開拓ありがとうございます。
そのまま、転がって、国道399号だ!

古今明、臼石、伊丹沢、比曽飛ばしてすいませーん。住民のかたーー!怒らんといてねー。

飯樋まで来たぞ、飯舘村の繁栄を築いてくれた牛さんたちを慰霊する「牛魂碑」に、手を合わせようっー。

62号線にはいっちゃった、何か、この緑の飯舘には不似合いの、バリケードがあるぞ、長泥だ。

帰還困難区域!

いいや、バリケード突破だ。
長泥は、ほんとに自然がきれいだなぁ。

 

おっ、蕨平まで来たぞ、また、緑の飯舘に不似合いの、巨大な建物があるぞ、何々、「減容化施設」

「帰還困難」とか「減容化」とか、漢字ばかりで、美しい飯舘に不似合いだなぁ。

ああああー、このままでは、飯舘村の外にでちゃうよーー、おじいさん助けてー」

 

みんな拍手でおむすびが進んで行くのを迎えてくれました。

浪江町・飯舘村にいってきました その4

画像は、バナナのたたき売りと、今、避難先のコミュニティの中心をされている女性。このコミュニティづくりに、むすびの活動が、多いにヒントになったらしく、むすびに、頻繁に連絡をくださいます。

執筆者プロフィール

友岡雅弥
友岡雅弥大阪大学文学部博士課程単位取得退学(インド哲学専攻)
高校生時代から、ハンセン病、被差別部落、在日、沖縄、障がい者、野宿生活者など、さまざまな「社会の片隅で息をひそめて暮らす人々」の日常生活のお手伝いを。

2011年3月11日以降、東北太平洋沿岸被災地に通う。

大学院時代は、自宅を音楽スタジオに改装。音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J -Pop以外はなんでも聴く。

沖縄専門のFM番組に数度ゲスト出演をし、DJとして八重山民謡を紹介。友人と協力し、宮川左近シヨウや芙蓉軒麗花など、かつて一世を風靡した浪曲のCD復刻も行ったことも。

プロフィル画像は、福島県で三つ目の原発が計画されていた場所だったが、現地の人たちの粘り強い活動で、計画を中止させた浪江町の棚塩。津波で壊滅し、今は、浪江町の「震災ガレキ」の集積場・減容化施設が建設されている。

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