冒頭に、「御守書てまいらせ候」とあります。「お守りを書いた」というのです。日眼女が「釈迦仏」を作り、大聖人が「お守り」を書く。ううーん。大聖人御化導の終わり近くなって、とてもルーズな「本尊観」ですよね。「本尊雑乱」?
そこに、一つのポイントがあります。
それは、御書はお手紙であり、さまざまな人々のさまざまな人生のポイントポイントでの、代わりの効かない、また無制限に広げることの出来ない、瞬間瞬間の大聖人のことばとこころ、であるということです。
いわゆる「本尊論」としては、「観心本尊抄」に大聖人の「本尊観」は、明確に出てきます。それは、己心にある十界(数には、そんなにこだわらない。言えば、仏界と地獄界の二界とかでもいいと思います)を、本尊としてたてる。
禅、いわゆる禅宗も、また天台止観もですが、禅は、心を観て、そこに仏を見ていく(見性)という修行体系をとります。
「止観」というのは、śamathaとvipaśyanāで、いわゆる普通のイメージでいう禅です。
「摩訶止観」は、「瞑想の修行体系」というぐらいの意味です。
「摩訶止観」は、『法華経』とは、直接的な関係はあまりなくて、心を観るということから、一念三千が出てきて、それで、大聖人は、『法華経』と関連付けたのです。そこに、大聖人のオリジナリティがあるのです。
大聖人の「三国四師」にしても、「正像末の法華経」にしても、客観的歴史というより、一念三千という基準で、仏教の歴史を見たものです。
「おお、像法時代の法華経や!」と、「摩訶止観」を手にして読もうとされた人は、驚かれた経験がお有りだと思います。
「これ、禅宗やんけ!」と。
まあとにかく、禅は、己心の中を「観」していくわけです。
それを大聖人は、外に対境として立てるわけです。
うちにあるけど、そとにある。そとにあるけど、うちにある。
そのambivalent性が、大聖人の本尊観の特徴です。
これで、自己満足(瞑想みたいに)にも陥らず、他者依存(仏像本尊みたいに)という緊張関係を持つわけです。
「本尊論」の理論書である「観心本尊抄」では、以上の本尊観です。
それと、本抄の間には、かなり開きがあるような感じをされたかたもおおいと思います。
持ってるだけで、OKな「お守り」と「本尊」は違うぞ。
「十界互具曼荼羅」なのに、釈迦像を作っていいのか。
結論を言うと、「大聖人はそれを許した」ということです。理論上許したのではなく、とりたてて、厳密な理屈や意見を立てなかったということです。とりたてて、きにしなかった、ということです。
「御書を学ぶ」ということと、「教学を学ぶ」ということは違います。例えば、「観心本尊抄」などでは、それはほとんど重なるでしょう。
しかし、本抄では違います。
本抄のようなお手紙を学ぶのは、そこに流れる大聖人のまなざしの温かさを自分のものとするということです。
「立正安国論」を学ぶのは、そこを貫く大聖人の、怒りを含んだ、怜悧なまなざしを、自分のものとするということです。もちろん、大前提としての、塗炭の苦しみに沈む人々への同苦のまなざしを。
「御書を心肝に染めること」と「教学を学ぶこと」の違いを、ハンドリング出来ることが大事なんです。
ちなみに、本抄で「教学」を学ぶというのは、例えば「お守り」というのは、当時、どんなものだったのかということです。また「釈迦像」は、当時、どういう位置づけだったかを知ることです。
この「お守り」を、今、神社かどこかで販売されているような、恋愛成就お守りと同じと考えてはいけません。
日本における「お守り」の始まりは、道教や陰陽道での、霊印・付録だと言われています。
日本では、平安時代に、始まったとされています。特に、女性や子ども対象にです。
奈良時代から、平安前期にかけて、南都六宗や真言宗・天台宗のころです。
女性や子どもは、仏教の教えの救済の対象としては、差別されていました。尼とならないかぎり、なかなか、寺への参詣も難しい。祈ることも制限されている。
しかし、平安時代も時代が進むにつれて、女性が寺にこもって、夜通し祈るという、それまでは、禁じられていたことも、認められるようになりました。
そして、「賎しき身」と差別されていた女性が、仏像を彫らせて、自分の家の持仏堂に安置するような、「聖なるもの」と女性の「近接」も認められるようになったのです。
「お守り」も、そのような流れです。
「聖なるもの」を、「賎しき身」に触れさせること自体がタブーだった時代から、女性が「聖なるもの」を肌身離さずもっていい、という時代になったわけです。
建治二年八月の「妙心尼御前御返事」、別名「御本尊護持事」に
おさなき人の御ために御まほりさづけまいらせ候。この御まほ(守)りは法華経のうち(内)のかんじん(肝心)、一切経のげんもく(眼目)にて候。
たとへば天には日月・地には大王・人には心・たからの中には如意宝珠のたま、いえ(家)にははしらのやうなる事にて候。
このまんだら(曼荼羅)を身にたもちぬれば、王を武士のまほるがごとく、子ををやのあいするがごとく、いを(魚)の水をたのむがごとく。草木のあめ(雨)をねがうがごとく、とりの木をたのむがごとく、一切の仏神等のあつま(集)り・まほ(守)り昼夜に・かげのごとく・まほらせ給う法にて候。よくよく御信用あるべし、あなかしこ・あなかしこ、恐恐謹言。
八月二十五日 日 蓮 花 押
とあります(p.1477)。
差別のゆえに、また、金銭的にも、寺社にかかわりを持つことができなかった存在である女性や子どもたちに、大聖人は、「守り」を書いて渡したのです。
「観心本尊抄」とは、次元の違うところでの話なんです。
さてさて、「釈尊一体三寸の木像造立」の件はどうなるか。
これは、次回に続く。
画像は、近隣で。
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