freak85 – 「野干」って何?/聖人御難事(その1)

各各師子王の心を取り出して、いかに人をどすとも、をづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野干のほうるなり、日蓮が一門は師子の吼るなり。(御書p .1190)

 

とてもとても有名な御文です。まず、本文に入る前に、些細なことですが、ちょっと書いておきます。
些細なことに、どうしても気になってしまう性分なんですよねーぇ。

「野干」です。

この「野干」、昔はキツネやヤマイヌと訳されていましたが、今は、ジャッカルとする例が多くなってきました。
ジャッカルなんです。ジャッカルは、しばしばハイエナと混同されて、かなり「鈍重」で「死肉」や「ライオンなどの食べ残し」を食らうイメージが投影されちゃってますが、
ハイエナと比べると、足も長く、むしろオオカミっぽい俊敏な動物です。
実は、ハイエナも俊敏なのですが。
なんか、テレビの影響で、「おこぼれにあずかる鈍重なイヌ科の動物」みたいなイメージが定着しすぎましたね。

さてさて、たまたま、大学で、「サンスクリット文法」を習っていたとき、最初に「おとぎ話」の一節を習ったんです。

最初の最初は、あの「世界で最も広く伝わった民話」、「バラモンの妻とマングース」でした。

バラモンの妻が外出しているときに、コブラが家に入ってきて寝ている赤ちゃんを狙おうとしている。そこで、飼っていたマングースが、赤ちゃんを守ろうとコブラとたたかい、コブラを倒す。
そこにバラモンの妻が帰ってきて、マングースの血だらけの口を見て、マングースが赤ちゃんをかみ殺したと思い、マングースを殺してしまう。
そして、「外見で物を判断してはならない」という話になるわけです。
インドのおとぎ話は、とても種類が多くて、これがヨーロッパにも入っていって、イソップ童話になったりします。

マングースは、サンスクリットで、नकुल, nakula といいます。

その最初のころの授業習ったいくつかのおとぎ話のなかに、マングース以上に出てきたのが、शृगाल śṛgāla、जम्षुक jambuka ジャッカル、でした。
担当の教授がとても古風なかたで、日常の会話も、「漢文体」かと思うようなひとだったので、「jambuka 、ああ、これはジャッカルね」とかではなくて、
「jambuka 、仏典におきましては、これはいわゆる『野干』と言われるものでございまして」と、まるで、砂川捨丸先生みたいな調子で続けられるわけです。

まあ、ともかく、そのとき、「jambuka は、『野干』」と記憶され、さらに、予習していったので、’V.S.Apte Sanskrit-English Dicrionary’ ‘Oxford Monier-Williams Sanskrit-English Dicrionary’に載っていた、jackalも、すでに記憶されていたのでした。
それで、「野干=jackal」というつながりも記憶されたのでした。
後に、南方熊楠の未公表書簡のなかに、次のような一節があるのを発見して、「熊楠すごなぁ」と改めて舌を巻いたのです。

『大和本草』などでいうように野干は狐と別物で、英語でジャッカル、梵名スリガーラ(すなわち悉伽羅)またジャムブカ、アラビア名シャガール、ヘブライ名シュアル、これらより射干また野干と転訳したのであろう。『博物新編』にはなどでは豪狗と作り、モレンドルフ説では漢名豺(さい)はこの獣を指すという。このものはたいそう悪賢いとの話がインドやアラビアなどの書に多く見え、聖書に狐が奸智の深いことを言われるのも、じつは野干を指すのであろうという。したがって支那日本で行われる狐の諸譚のなかに野干の伝説を混入したことが多い

すごいですよね。熊楠。

さてさて、問題の「野干=jackal」ですが、インドの説話において、どちらかというと、「トリック・スター」的な役割で出てきます。「トリック・スター」っていうのは、民俗学、民族学、文化人類学の概念で、秩序を破り、そして混乱をもたらし、時には、新しい時代を開くような役割を演じる存在です。もちろん、混乱のなかで、失敗する例もあります。

たとえば、あるジャッカルがふらりふらりと散歩をして、町のなかをうろついているうちに、染め物屋さんの、染料の瓶に落ちてしまい、青色に染まってしまう。
青いジャッカルの姿を見て、仲間のジャッカルが畏怖し、王としてあがめる。やがては、トラやライオンまでが、彼の家来になる。
トラやライオンまでが家来となり、得意になった件のジャッカルは、仲間のジャッカルたちをばかにして、遠ざけてしまう。
ジャッカルの本性がばれないように、用心して声を出していた彼が、かつての仲間のジャッカルが吠えているのを聴いて、思わず自分も「ジャッカルの声」で吠えてしまい、素性がばれて、トラやライオンたちに殺されてしまう。
ーー自分の仲間をすてさって、他の力あるものたちにつくものは、染料の瓶に落ちたジャッカルのように、その力あるものたちによって、滅ぼされる。

 

こういう話が、古代インドの教訓説話集「ヒトバーデーシャ」の第三章に出てきます。

この「ヒトバーデーシャ」などの説話集は、「説話」というものの性格もあるのでしょうが、どちらかというと、こっけいな姿のジャッカルが描かれます。

しかし、たとえば、仏教でも、後期の、イスラムのインド侵攻後に成立してきた仏教、すなわち「密教」などでは、ヒンズー教の影響で、人を呪い殺すようなおどろおどろしい、呪法が現れます。その時、「死体を食べる神」、茶枳尼天の眷族として、野干が扱われるようになったりします。
これが、日本では、茶枳尼天と稲荷のお遣わし(眷族)のキツネ、という関係になり、茶枳尼天には、キツネが付き物になり、「野干=キツネ」説に姿を変えるわけです。

大聖人の御書中の「野干」は、そのようなおどろおどろしい雰囲気はまだありません。
茶枳尼天みたいな存在が、広まって、パワー・スポット化してしまうのは、神仏習合と、密教が、人々の意識のそこまで浸透して行ってから以降。
特に、江戸時代になり、檀家制度の影響で、教義を学んだり、法論をしたりすることが、「御禁制」となり、超自然的な、呪術的なパワーを、人々が広く求めていくようになってからです。

例えば、この時に、本来は、芸術の技を研くために信仰する「弁才天」が、金もうけを祈る「弁財天」になって行ってしまったりもしました。

なんか、とても紆余曲折話になってしまいましたが、「野干」というのは、ジャッカルで、インドではおとぎ話によく出てくる、わりと身近な存在。後世の、日本の茶枳尼天信仰みたいなところでは、キツネ(日本には、ジャッカルはいないので)として、わりとおどろおどろしいイメージで語られることになりますが、

大聖人のころは、まだそうではありません。

あくまで、師子(=獅子、ライオン)との対比で語られる存在なのです。

では、その対比とは。

その2を請うご期待。といっても、また紆余曲折話かも。

画像は、’V.S.Apte Sanskrit-English Dicrionary’ ‘Oxford Monier-Williams Sanskrit-English Dicrionary’の、jambukaの項目。

’V.S.Apte Sanskrit-English Dicrionary’ ‘Oxford Monier-Williams Sanskrit-English Dicrionary’の、jambukaの項目。

’V.S.Apte Sanskrit-English Dicrionary’ ‘Oxford Monier-Williams Sanskrit-English Dicrionary’の、jambukaの項目。

執筆者プロフィール

友岡雅弥
友岡雅弥大阪大学文学部博士課程単位取得退学(インド哲学専攻)
高校生時代から、ハンセン病、被差別部落、在日、沖縄、障がい者、野宿生活者など、さまざまな「社会の片隅で息をひそめて暮らす人々」の日常生活のお手伝いを。

2011年3月11日以降、東北太平洋沿岸被災地に通う。

大学院時代は、自宅を音楽スタジオに改装。音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J -Pop以外はなんでも聴く。

沖縄専門のFM番組に数度ゲスト出演をし、DJとして八重山民謡を紹介。友人と協力し、宮川左近シヨウや芙蓉軒麗花など、かつて一世を風靡した浪曲のCD復刻も行ったことも。

プロフィル画像は、福島県で三つ目の原発が計画されていた場所だったが、現地の人たちの粘り強い活動で、計画を中止させた浪江町の棚塩。津波で壊滅し、今は、浪江町の「震災ガレキ」の集積場・減容化施設が建設されている。

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