freak79 – 使ってるけど、ゆうてへんねん/生死一大事血脈抄(その1)

冒頭に、こうあります。ここの部分は、本抄の大事なところではないので、読み飛ばしてもらってもOKです。大事なのは、ここから始まって、それがどのようなカーブを描いて着地するかですから。

大きなカーブを描いてストライク・ゾーンに入っていくボールの軌跡の最初を見て、エラいとんでもないところに投げてるなと思ったらあきません。

 

さて、冒頭。

「夫れ生死一大事血脈とは、所謂妙法蓮華経是なり。其の故は釈迦、多宝の二仏、宝塔の中にして、上行菩薩に譲り給いて、此の妙法蓮華経の五字、過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり。

 

妙は死、法は生なり。此の生死の二法が十界の当体なり。又此れを当体蓮華とも云うなり。天台云く「当に知るべし、依正の因果は悉く是蓮華の法なり」と云云。此の釈に依正と云うは生死なり。生死これあれば、因果又蓮華の法なる事明けし。伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」と文」

 

「生死の二法」とか、なんか、深遠なことといているようですが、大事なのは、ことばにどれだけのこころが乗っているかです。

ここは、もろ中古天台です。

中古天台というのは、鎌倉時代に発展というか、退化というかしていく日本天台宗の流れで、凡夫は即仏。だから苦しんでいる人は、そのままで仏だから、助けなくていい。

それから、自分は本覚の仏。だから修行はいらない。まあ必要とするならば、禅定によって、自分の仏性を見ること、また密教的な神秘的な修行によって、オカルティックな、ハイな気分になればいい。

 

このような「修行無用論」「救済無用論」へと退行していったのが、中古天台です。

 

この箇所で、伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」と引用されているのは、『天台法華宗牛頭法門要纂』です。

ただし、この本は、伝教大師・最澄の作とされていますが、かなり後で作られた可能性が高い。そして、まさに中古天台そのものの中心的文献なのです。おそらく、鎌倉時代初期に作られたと考えられています。

 

そして、この書物は、ほぼ同じような考えを説いた、源信(「往生要集」の)の作とされている(もちろん、鎌倉時代に源信の名前で創作された)「本覚讚釈」などの、合計5つの文献とともに(すべて、鎌倉時代の成立と推定されています)、「五部血脈」といわれています。

 

つまり、「血脈」という概念は、「中古天台」そのものと言えるでしょう。

 

ということで、中古天台っぽく始まった本抄ですが、これがどうカーブするかを見てください。

 

もともと、「血脈」という考え方は、血筋とか、血統というい意味で、かなり差別的な考え方です。平安時代に仏教に入ってきたと考えられますが、特別な人がエラいという、神様チックな仏観、修行者観が色濃く出ていますね。

 

もちろん、それは、真言密教の得意技なんですが、台密(天台密教)も、そんな考えをとりました。

 

凡夫も仏も同じ、煩悩も菩提も同じ、それは祈禱や心身を痛めつける苦行や禅によって、得られる不思議な境地。それこそ本覚の悟り、そしてそれを悟ることが血脈というわけです。仏から一人のエラい人への血脈です。

そして、さらに、その不思議な境地を体得した法主が、不思議な儀式で、その境地を次の法主に譲り与える。これが「唯授一人の血脈相承」というわけです。さらにさらに、矮小化されてきましたね。

これって、矛盾しているんですよね。天台本覚論がいうように、凡夫が全員仏だったら、「唯授一人」ではなく、「唯授全員」(!)といわねばならないですよね。

そして、「授けられて後に、すごい」のではなく、「もともと、すごい」のでなければならないですよね。

 

だから、現実の歴史として「天台本覚論」は、自己矛盾しているのです。つまり、「全員が、もともとから仏」といいながら、結局は、天台宗の法主のみがエラいという、とても偏狭な考え方、とても秘義的なオカルティックな考え方。

 

凡夫も仏も同じとしたら、それは、普通の生活をする人々にこそ実証されねばならないのに、特別な祈禱や禅定によって、特別な人にしか、体得されない、というのはおかしいです。

また、特別な儀式によって、譲り与えるというのも、おかしな話です。

 

さて、そのような「生死一大事血脈」つまり、凡夫即仏という考え方、そして、それは特別な人にしか体得されないという考え方のような、当時の天台宗の「常識」を思わせるような出だしで始まる本抄ですが、

 

もちろん、それは、最蓮房(架空の人かもしれませんが)が、天台宗の僧侶であったということで、その修学してきた「おなじみのcliche」から始まった本抄ですが、カーブを描いて、全然別のほうに着地します。

 

 

1337ページの以下の三ヶ所に、「生死一大事血脈抄」の「血脈」観が現れていると思われます。

 

然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ、全く差別なしと解りて、妙法蓮華経と唱え奉る処を、生死一大事の血脈とは云うなり。此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり。法華経を持つとは是なり。

 

つまり、仏にも、『法華経』にも、私たちにも、同じ温かい血が流れてんねん。

 

過去の生死、現在の生死、未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを、法華の血脈相承とは云うなり。

 

信心の熱い血は、昔も今も変わらず、私に流れてんねん。止まることを知らぬ水の信心の流れが、血脈やねん。

日蓮が弟子檀那等、自他・彼此の心なく水魚の思いを成して、異体同心にして、南無妙法蓮華経と唱え奉る処を、生死一大事の血脈とは云うなり。

 

他人に対する共感の思い。その通いあう温かな血が、血脈やねん。

 

 

むちゃくちゃ、「今の私」がどうすべきか、というところに着地しました。

 

つまり、本抄は「血脈」「生死一大事血脈」という、真言密教や天台密教、中古天台の言葉を使いながらも、生活に生きる信仰というところに帰着させているのです。

「『血脈』という言葉を使っているけど、そんなことゆうてへん」のです。

 

この姿勢は、大聖人のご述作、あるいは、それに準ずるという位置づけが可能かと思います。

 

また、本抄の途中に、こんな一節があります。

 

「火は焼き照らすを以て行と為し、水は垢穢を浄むるを以て行と為し、風は塵埃を払うを以て行と為し、又人畜、草木の為に魂となるを以て行と為す。大地は草木を生ずるを以て行と為し、天は潤すを以て行と為す。妙法蓮華経の五字も又是の如し、本化地涌の利益是れなり」(p.1338)

地水火風天は、真言密教、また天台密教の「五大」説であり、そのままでは、まさに、当時の中古天台の背景にある天台密教になります。

 

でも、最後にカーブして「私たちが唱えるところの妙法蓮華経」はと、ストライクになるのです。

 

画像は近隣で。去年の夏です。生死の境をうろうろし退院した後。

 

freak81 – 臨床のことば/生死一大事血脈抄(その2)
へつづく。

執筆者プロフィール

友岡雅弥
友岡雅弥大阪大学文学部博士課程単位取得退学(インド哲学専攻)
高校生時代から、ハンセン病、被差別部落、在日、沖縄、障がい者、野宿生活者など、さまざまな「社会の片隅で息をひそめて暮らす人々」の日常生活のお手伝いを。

2011年3月11日以降、東北太平洋沿岸被災地に通う。

大学院時代は、自宅を音楽スタジオに改装。音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J -Pop以外はなんでも聴く。

沖縄専門のFM番組に数度ゲスト出演をし、DJとして八重山民謡を紹介。友人と協力し、宮川左近シヨウや芙蓉軒麗花など、かつて一世を風靡した浪曲のCD復刻も行ったことも。

プロフィル画像は、福島県で三つ目の原発が計画されていた場所だったが、現地の人たちの粘り強い活動で、計画を中止させた浪江町の棚塩。津波で壊滅し、今は、浪江町の「震災ガレキ」の集積場・減容化施設が建設されている。

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