freak93 – こんなときに、仏像かよ!/日眼女造立釈迦仏供養事(その2)

freak91 – こんなときに、仏像かよ!/日眼女造立釈迦仏供養事(その1)
のつづき。

御書の御文を、さーっと眺めてください。

御守書てまいらせ候三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女・御供養の御布施前に二貫今一貫云云。
法華経の寿量品に云く「或は己身を説き或は他身を説く」[或説己身或説佗身]等云云、東方の善徳仏(中略)阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、

例せば釈尊は天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり、釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり、譬えば頭をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき。

今の日眼女は三十七のやくと云云、やくと申すは譬えばさいにはかどますにはすみ人にはつぎふし方には四維の如し、風は方よりふけばよはく・角より吹けばつよし、病は肉より起れば治しやすし節より起れば治しがたし、家にはかきなければ盗人いる・人には・とがあれば敵便をうく、やくと申すはふしぶしの如し、家にかきなく人に科あるがごとし、

よきひやうしを以てまほらすれば盗人をからめとる、ふしの病をかねて治すれば命ながし、

今教主釈尊を造立し奉れば下女が太子をうめるが如し国王・尚此の女を敬ひ給ふ何に況や大臣已下をや、大梵天王・釈提桓因王・日月等・此の女人を守り給ふ況や大小の神祇をや、

昔優填大王・釈迦仏を造立し奉りしかば大梵天王・日月等・木像を礼しに参り給いしかば木像説いて云く「我を供養せんよりは優填大王を供養すべし」等云云、影堅王の画像の釈尊を書き奉りしも又又是くの如し、

法華経に云く「若し人仏の為の故に諸の形像を建立す是くの如き諸人等皆巳に仏道を成じき」[若人為仏故建立諸形像如是諸人等皆已成仏道]云云、文の心は一切の女人釈迦仏を造り奉れば現在には日日・月月の大小の難を払ひ後生には必ず仏になるべしと申す文なり。

抑女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと・きらはれまします、但法華経ばかりに女人・仏になると説かれて候、
(中略)
法華経と申すは星の中の月ぞかし人の中の王ぞかし山の中の須弥山・水の中の大海の如し、是れ程いみじき御経に女人仏になると説かれぬれば一切経に嫌はれたるに・なにか・くるしかるべき

(中略)

此の男女は皆念仏者にて候ぞ皆念仏なるが故に阿弥陀仏を本尊とす現世の祈りも又是くの如し、設い釈迦仏をつくりかけども阿弥陀仏の浄土へゆかんと思いて本意の様には思い候はぬぞ、中中つくりかかぬには・をとり候なり。

今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし、二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。
弘安二年己卯二月二日 日蓮 花押
日眼女御返事

読んで分かるように、日眼女の37歳の「厄年」に対して、日眼女は釈迦像を作って、大聖人にお届けしたわけですよね。
「厄」というのは、仏教とは全然関係なくて、陰陽道や易の考え方です。でも、「お守り」と同じく、平安時代に流行してくるのです。
だから、大聖人としては、「そんなのは世法だ!」とうっちゃっておけばいいのですが、でも、丁寧に応じられます。

「厄」を「節目」ととらえて、「まあ、そういう節目節目には、用心したほうがいいかもね」という感じで。もちろん、その節目節目に、自分の人生を見つめ直したりするのも、当然、とてもいいことですから。

文章の流れを見たら分かるように、「センター(中心)」という概念をめぐって、筆は流れていきます。

大きく二つの流れがあります。
教主・釈尊。
もう一つは、「女性」

「厄」というものが、陰陽道の概念と言いましたが、厄除けの祈禱というと、それこそ、ヴェーダの時代からのバラモン・ヒンズーの招福除厄の祈禱の流れが、そのまま仏教に入ってきた真言宗。
それから、守護の力が強いと信じられ、日本では、慈母観音に、馬頭観音など、さまざまな悩みに特化した専門店としての観音信仰。

そして、大流行している念仏。

これらが、「厄除け」といえば、念頭に置かれたわけで、ちょっと考えていただいたら分かると思いますが、観光地の有名な巨大寺院の本尊が、「お釈迦様の仏像」という寺はないですよね。

末法思想の展開とともに、滅びゆく娑婆世界とは無関係の「他土の仏」が功力があると考えられていたわけで、だから娑婆世界有縁の釈尊は、功力がないと思われていた。

しかし、この日眼女は、よりによって、「釈迦像」を作ったわけです。
これは、文字本尊ではないのですが、方向性としては、とてもいい方向性。
他土ではなく、此土。
まず、大聖人は、この目の付け所を評価するのです。

そして、つぎに、この日本は、天照大神という女神が作った国だから、女人が中心であるというわけです。
これって、革新的ですよね。天照大神の子孫である万世一系の天皇が中心、というのではなく、「女性が中心」という観点で、日本という国をとらえ直している。
天照大神を、ナショナリズムの観点ではなく、フェミニズムの観点でとらえ直すという、画期的な言説だと思います。

さらに、最後に仏教の中心を、「釈尊」から『法華経』へと、移動させて(釈迦像造立という行為を、経典尊重・思想体現という人生の姿勢へと移動させる)、女人を守る『法華経』と、最後の最後は、「お守り」も、さらに昇華させるわけです。

あっぱれ。参りました。

画像は、近隣で。

執筆者プロフィール

友岡雅弥
友岡雅弥大阪大学文学部博士課程単位取得退学(インド哲学専攻)
高校生時代から、ハンセン病、被差別部落、在日、沖縄、障がい者、野宿生活者など、さまざまな「社会の片隅で息をひそめて暮らす人々」の日常生活のお手伝いを。

2011年3月11日以降、東北太平洋沿岸被災地に通う。

大学院時代は、自宅を音楽スタジオに改装。音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J -Pop以外はなんでも聴く。

沖縄専門のFM番組に数度ゲスト出演をし、DJとして八重山民謡を紹介。友人と協力し、宮川左近シヨウや芙蓉軒麗花など、かつて一世を風靡した浪曲のCD復刻も行ったことも。

プロフィル画像は、福島県で三つ目の原発が計画されていた場所だったが、現地の人たちの粘り強い活動で、計画を中止させた浪江町の棚塩。津波で壊滅し、今は、浪江町の「震災ガレキ」の集積場・減容化施設が建設されている。

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