哲学入門10 – 第2章「哲学の起源と開かれた対話」2.1 哲学の起源 2.2 ソクラテス以前の哲学者
第2章「哲学の起源と開かれた対話」に筆を進めた。第1章が概論中の概論で、アウトラインのみを示したような形だから、本章から、いよいよ個別の哲学者の議論や哲学史に入っていくことになる。今回は、まず、哲学が誕生した瞬間に注目してみた。
哲学とは、世界とは何か、人間とは何かといった事柄の探求のことである。それでは、哲学が誕生する「以前」において、一体、何が哲学の役割を果たしていたのだろうか。それは神話や宗教である。神話や宗教が人間に生の意味を与え、世界の見取り図を提供してきたのである。これは哲学が誕生する「以前」においても「以後」においても同じである。
神話や宗教も哲学と同じような役割を果たしているが、決定的な違いもある。それは、信じている人にしか通用しない「限界」を孕んでいるということだ。ユダヤ・キリスト教の世界観・人間観は、当然、仏教やイスラームのそれと異なる。キリスト教においてもカルヴィニズムとローマ・カトリックでは異なってくる。単純化と受け止められたくないが、そういう差異が、時には対立を引き起こし、人間世界の融和をさまたげてきたのである。
では、信じるか・信じないのかという「限界」を持っている神話や宗教の提供する世界観や人間観を超え、異なる立場の人々が、水平に議論できるようにするには、どのようなアプローチを取ればよいのか? 人々が、その限界を突破しようと模索した時、哲学は誕生したのである。
哲学とは「多くの人を納得せしめるような強い考え方(普遍的な考え方や原理)」でなければならないと定義したが、哲学は「神が世界を作った」と言う代わりに、「万物の根源(アルケー)とは~である」とアプローチする。「世界とは一体何なのだろうか?」という問いを前に、神話や宗教は、「神が世界を作った」という物語で説明(=応答)してきた。そうすると、それぞれの人間がお互いに異なる神話や宗教を信奉していた場合、当然、その探求や話し合いは決裂する。信じるか・信じないのだから当然だ。「神が世界を作った」という応え方は、「仏が作った」とか「私の神が作った」という議論へ錯綜してしまう。これでは、「世界とは一体何なのだろうか?」という問いを前にすすめることができない。これが、神話や宗教の「限界」である。
それに対して哲学者たちは、この問題に対して「神が作った」という問い-応答の関係を変更する。「誰が作ったのか」と答えるよりも、「何から出来ているのか」という問い方へ転換し、神話や宗教の「限界」を突破しようと試みたのである。最初期の哲学者のひとりタレスは、「何から出来ているのか=万物の根源とは何か」という問いに対して「水」であると答えた。万物の根源が水であることが正しいのか間違っているのかはここでは問わないが、タレスが「水」であると宣言した時、誰もがこの議論に自由に参加できるようになったのである。
まず、哲学は、万物の根源とは何かを知ろうとすることから始まった。また神話や宗教の「物語」を辞め、誰にでもわかる言葉(主として抽象概念)を使用することで、万人に開かれた、すなわち言語による普遍的な営みとして始まったのである。
古代ギリシアで哲学的思索が始まったこの時期……長いスパンでみると紀元前800年頃から紀元前200年ごろ……、興味深いことに、世界各地で同じような思索が萌芽している。中国では孔子が現れ、インドではブッダが現れ、イスラエルではユダヤ教の改革とその超克の試みとしてのイエス・キリストが現れている。哲学者のヤスパースは、人類史を画期したこの時代を「枢軸の時代」と名付け、それ以前の「神話の時代」と区別した。因みに枢軸とは世界史の転換の軸との意味である。
「これら三つの世界全部において、人間が全体としての存在と、人間自身ならびに人間の限界を意識したということである。人間は世界の恐ろしさと自己の無力さを経験する。人間は根本的な問いを発する。彼は深淵を前にして解脱と救済への念願に駆られる。自己の限界を自覚的に把握すると同時に、人間は自己の最高目標を定める。人間は自己の存在の深い根底と瞭々たる超存において無制約性を経験する」。ヤスパース(重田英世訳)「歴史の起源と目標」、『ヤスパース選集』9巻、理想社、1964年。
人間が深くその有限性を自覚した時、人間の無限の可能性が跳躍するとでも言えばよいのだろうか。思えばイマヌエル・カントが人間の能力の限界づける(『純粋理性批判』)と同時に、人間の内発性の無限性を提示した(『実践理性批判』)。筆者は神学を専門とするから、宗教や神話を否定的に語ることに関しては忸怩たる思いがあるのだが、それでも、宗教や神話が人間の有限を規定することと、哲学が人間の有限性を規定することには大きな開きがあるように思えて他ならない。もちろん、通俗的な図式を示すならば、枢軸時代において、民族宗教から世界宗教への跳躍がそれぞれの宗教文化のなかで花開くが、ここにおいての跳躍とは、隷属としての宗教から開放としての宗教への転換であるから、一慨に、宗教や神話の人間の有限性規定を批判できるものではないけれども、宗教にせよ神話にせよ、そして哲学にせよ、生を開放する方向性を示し得ない限り、それは、「枢軸の時代」以前の思索なのかも知れない。
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