哲学入門51 – コラム:無意識と差異の発見【無料】

前回の哲学入門(3.3 前史(13) 現代思想外観(2) フロイトとソシュールの衝撃)では、現代思想の源流として、フロイトとソシュールを取り上げた。

フロイトによる精神分析学は、臨床体験に基づき、心のメカニズムから精神疾患の原因を説明する試みである。フロイトのアプローチは、現代でこそ、ある程度の妥当性をもつ説明原理として受容されているが、20世紀初頭の当時においては、単なる仮説にしか過ぎないと受け止められてきた。ストレスや心的トラウマが現象世界に影響を与えることが、確認できないからである。しかし、臨床の積み重ねは、説得力をますものとなっていく。
思想世界に対するフロイトの衝撃とは一体、何であろうか。
ひとつは、無意識の発見である。西洋の伝統的な人間観は、「我思う故に我あり」(デカルト)という言葉に代表されるように、人間とは「ロゴス」をもった「理性的な生き物」(アリストテレス)であるという考え方である。理性に従い、合理的にものごとを判断し、行動するのが人間の人間らしさであると考えられてきたのだ。しかし、無意識の影響を意識的に理性に従う人間が影響を受けているとすれば、伝統的な人間観が無効になってしまうということである。
人間とは何かを探求するうえで、常に対比されてきた非人間らしさのモデルは、動物であろう。その動物の特徴とは何かといえば、理性をもたずに、本能に従って生きているということである。無意識の発見とは、人間とは何かを考えるうえで、人間も本能に従っているということを射程に収めなくてはならなくなったのである。
自分が何を知り、なぜを理解しているのかに対する意識的な自覚を人間はもつと伝統的な哲学は考えてきたが、この図式がフロイト以降成立しなくなってしまう。以後の哲学者たちは、思考モデルだけでなく人間観の更新を迫られることになるのである。
フロイトの営みは、伝統的な西洋哲学の人間観の更新を課題としてつきつけたが、言語学の立場から、その更新を迫ったのがソシュールである。伝統的な言語学は言語名称目録観をとるが、これは言葉は存在に対応しており、存在の目録のように言葉と存在が対照していると考えるものである。ネコならネコに対応する言葉という図式がまずあり、それが言語によっては「猫」であり「cat」であると考えるものである。しかし、ソシュールによる言語学の更新は、人間が言語という制度のなかで思考していることを暴き出すことになってしまった。言語学の革新は、人間の理性がハンドフリーではないことを明らかにしてしまうのである。
伝統的な哲学の存在に対する考え方を振り返ってみよう。
唯物論の立場に従えば、個々のネコというモノが真に実在すると考え、その実在に対してさまざまな言葉、すなわち「猫」や「cat」が対応すると図式化する。一方、観念論の立場に従えば、ネコというモノより先にネコという観念が真に実在すると考える。そしてその観念が言語によって、「猫」や「cat」と異なると考えたのである。
唯物論と観念論では、存在に対する考え方は異なるが、どちらも、存在(観念)に名称が目録のように張り付いていると考えることでは同じである。
だが、ソシュールの言語観に従えば、まず言語のなかで区別が存在するとされ、その区別は変動するのである。これが「差異の体系」である。ある言語では、「山猫」という言葉が存在するが、別の言語では存在しないことはよくある。しかし、山猫という生物は不在ではないことがほとんどだから、「山猫」という言葉の不在は、存在と言語の必然的な結びつきを破綻させることになるのである。
恣意的な区別こそ、言葉と存在を結合させているのである。要するに、まず網の目のような差異があって存在の範囲が決まるということである。まず存在が実在し、次に、異なる存在同士の関係があるのではない。この構図をソシュールは逆転させてしまうのである。そして、言語がどのような差異の網の目を持っているかは、中立的に存在しているのではなく、文化的・歴史的に制約を受け、モノと言葉の結びつきには必然性はないということである。山猫という言葉の不在はそのことを証左する。
これが現代的なものの見方の出発になるのである。
フロイトとソシュールの衝撃は、哲学世界を一新することになるが、ひとつだけ注意しておきたいことがある。筆者は、絶対的な実在とか、普遍的な真理が実在することには疑問がある。といっても、あることが証明できないように、同時にないことも証明不可能という立場である。フロイトとソシュールは、あることの証明不可能性を暴きだす営みとなったが、それは、すべてのことがらが絶対的な相対主義であると宣告したものではなかったということである。相対的な立場が絶対的に実在するとすれば、それこそ従来の哲学図式の圏内に位置することになってしまうから、そうした理解こそ、フロイトとソシュールに対する誤解に過ぎない。
しかし、この国では、フロイトやソシュール以降の現代思想を、ケセラセラな相対主義礼賛の如き、安易な受容が多い。そこには注意喚起をしておきたい。

執筆者プロフィール

氏家法雄
氏家法雄アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者
氏家法雄 アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者。1972年香川県生まれ。慶應義塾大学文学部文学科(ドイツ文学)卒。立教大学大学院文学研究科組織神学専攻後期博士課程単位取得満期退学。鈴木範久に師事。キリスト教学、近代日本キリスト教思想史、宗教間対話基礎論を専攻。元(財)東洋哲学研究所委嘱研究員。千葉敬愛短期大学(倫理学)、創価女子短期大学(哲学)、創価大学通信教育部にて元非常勤講師。論文には「姉崎正治の宗教学とその変貌」、「吉野作造の『神の国』観」、「吉満義彦の人間主義論」など。ええと「うじいえ」ではなく「うじけ」です。

他の記事もチェック