哲学入門61 – コラム:なぜ『存在と時間』なのか。【無料】

ハイデガー論その2では、主として第二次世界大戦後のハイデガーの哲学に注目した。戦後、ハイデガーは言葉遊びめいた難解な言い回しを好むようになる。例えば「ことばは存在の棲家(すみか)である」といった具合である。神秘的なその語りは、存在論に集中した前期ハイデガーと異なるように見える。しかし、ハイデガーの基本的な洞察は、『存在と時間』以来、一貫していると筆者は理解している。その意味では、ハイデガー哲学を理解するうえでは、未完の大著『存在と時間』に集中するほかない。

『存在と時間』における鍵となるキーワードが「世界内存在」である。それは、空間という座標から存在を位置づけようとする試みである。では、時間という座標から人間を理解しようとすればどのようになるのだろうか。ここでは、そのことについて少々考えてみたい。

ハイデガーは存在への理解を深めるなかで、人間が生きている現在を憂慮することになる。それを、わかりやすい話で指摘すれば次のようになろう。

「赤信号皆で渡れば怖くない」という言葉があるが、それがハイデガーの憂慮である。「皆」とは要するに誰でもない誰かのことである。社会で生きるなかで、人間は個性を失いコマとして生きてしまうときがある。学者の上から目線の言葉でいえば「大衆」という生き方である。「みんながそう言っている」というフレーズに安心してしまう心根をハイデガーは憂慮するのである。その人間の状態をハイデガーはダス・マン(Das Man、日本語では「世人」と訳されることが多い)と呼ぶ。ハイデガーは、大衆社会のなかで人間が自己忘却していることを憂えたのである。

ではどのような手続きを経れば、世人という状態から脱却できるのであろうか。

ハイデガーは「死」という現象に注目する。

死とは非常に不思議な現象である。死を経験した人間は誰もいない。他人の死しか人間は知らないのである。他人の死に接することが自分の死を考えることはできるが、死を経験することはできない。ゆえに、おそらく、たいていの人間は当面、死は差し迫った現象とは考えていない。どこまでも死とは他人事の現象なのである。ハイデガーはここにダス・マンの自己忘却の核心を見るのである。

私が死ぬということは、誰か他の人に変わってもらうことのできない自分自身固有の現象である。しかし、大衆社会のなかでの人間は、そのことを自覚・把握することは稀である。死は自分自身にとって固有の現象であるにも関わらず、その自覚がないということは、自分自身の全体を知らないことを意味する。これほど恐ろしい頽落はないとハイデガーは考えたのである。

この死に対するハイデガーの洞察は、存在への新しい理解を示すことになる。それが時間という座標である。誕生から死へ人間は生きている存在という意味では、私たち人間の現在は、その「間」の存在と言えよう。自分の誕生も死も理解することはできない。そういう「間」に生きているだけだが、その「間」に生きている人間のあり方をハイデガーは「未済」と呼んだ。要は決算がついていないということだ。しかし、未済であるがゆえに、自分がいつ死ぬかわからない存在であることを自覚(これを「死への先駆的自覚」という)し、現在を生きることは可能である。ここにハイデガーは人間の人間らしさや本来性を見出すのである。

自分自身の死を自覚することで人間は死にたいして自由になるともハイデガーは指摘する。根無し草的なダス・マンは、あれこれと目移りしながら生きている。それはさながら自分自身を見失って生きているようなものだ。それに対して自分自身の死という自覚のある人間は、自身の有限性を自覚して生きるから、現在をより豊かにしようと、すなわち自分自身を取り戻そうと格闘する。それがまさに「死への先駆的自覚」の具体的ありようであろう。

有限な時間のなかで目標を持ち、積極的に生きる姿に人間の人間らしさをハイデガーは認めたが、それは取りも直さず、ダス・マンに非人間らしさを認めることにも直結する。積極的に生きることは決して悪いことではないが、返す刀で非人間らしさを認めることには危うさがつきまとう。また存在を時間軸でとらえる発送は、人間の歴史性を批判するよりも、民族の宿命や国家の自覚といった発想ともつながりやすい。ここにナチズムとの親和性が生まれるのである。

筆者は、ハイデガーが糾弾する通り、テレビのチャンネル変え、話題に次々と目移りしていくダス・マンという有り様は批判されてしかるべきであると考える。本当に大切なこと、考えなければならないことを打ち捨て、それをあえて忘れるために、浮世に流されてしまうことが決してよいわけではない。ソクラテスの口を借りてプラトンが指摘する通り、哲学者とは「恒常普遍」のものにふれる者であり、それはひとりひとりのすべての人間がそういう自覚で生きていかなければ、現在は更新され得ないからである。その意味では、ハイデガーのダス・マン批判に満腔の敬意を表する。

しかし、ひとつ注意しなければならないことがある。それは、一人の人間がダス・マンであることに気づき、生き方を改めていくことができることがあったとすれば、大いに喜びたいものだが、その気付きが、気付いていない人間よりも「上である」という意識、すなわち選民思想の如き意識へと変容するものであったとすれば、それは唾棄されなければならない。

ダス・マンのあり方にせよ、選民思想としてのダス・マン批判にせよ、その問題は、序列化された人間として生きることである。その超克こそ、哲学の課題ではなかったか。ハイデガーのナチズムへの接近は、その誤った超克であったように思われてしかたがない。

しかし、これは楽譜を変えて再演される陥穽であるからこそ、知識に関わる人間は革命的警戒心をもってクリティークという作業に従事しなければならないのではあるまいか。

さて、表紙の写真は、職場近くの桃陵公園(香川県仲多度郡多度津町)からの一葉。
筆者も花見は嫌いではない。しかし、何も、知的格闘をすることなく、花見にうつつを抜かす輩をアホではないかと、3年前では考えていたが、このうぬぼれをここ数ヶ月反省している。「お前ら、アホか」という上から目線こそ、退けられてしかるべきものはない。

寤をぬかすことと「お前ら、アホか」という対極の人間理解の超克が、現在の筆者の課題である。

哲学入門60 – 哲学入門 前史(16) 現代思想概観(4) 現象学からハイデガーへ(2)

執筆者プロフィール

氏家法雄
氏家法雄アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者
氏家法雄 アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者。1972年香川県生まれ。慶應義塾大学文学部文学科(ドイツ文学)卒。立教大学大学院文学研究科組織神学専攻後期博士課程単位取得満期退学。鈴木範久に師事。キリスト教学、近代日本キリスト教思想史、宗教間対話基礎論を専攻。元(財)東洋哲学研究所委嘱研究員。千葉敬愛短期大学(倫理学)、創価女子短期大学(哲学)、創価大学通信教育部にて元非常勤講師。論文には「姉崎正治の宗教学とその変貌」、「吉野作造の『神の国』観」、「吉満義彦の人間主義論」など。ええと「うじいえ」ではなく「うじけ」です。

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