freak36 – 「一人の私」/種種御振舞御書その 1/2【無料】
「種種御振舞御書」は、とてもビジュアルイメージが湧くような、緊張感をもった、ドキュメンタリーです。まず、その光景をイメージしながら、通読してみましょう。そうすると、ある象徴的な事実が分かります。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
「種種御振舞御書」は、とてもビジュアルイメージが湧くような、緊張感をもった、ドキュメンタリーです。まず、その光景をイメージしながら、通読してみましょう。そうすると、ある象徴的な事実が分かります。
日蓮大聖人が唱えた五字七字の題目、「南無妙法蓮華経」の題目って、何でしょう?もちろん、さまざまな角度からのアプローチが可能でしょう。今回は、自分自身の経験した、一つの事実から、考えてみたいと思います。
日蓮大聖人の「やのはしる事は弓のちから(中略)をとこのしわざはめのちからなり」という有名なことばがあります。このことばを、どの方向に向けて展開していくか、それで、180度意味が変わります。
「単衣抄」の御文から少し離れて、「仏のことばを証明する」ということについて、いろんなことをつれづれなるままに考えたいと思います。
「単衣抄」の「日蓮・日本国に出現せずば如来の金言も虚くなり」ということばは、どのように解釈するか、それは、自分の信仰の有様を試す試金石となるかもしれません。
「椎地四郎殿御書」のメイン・テーマである「法華経の行者」と「難」について、少し考えてみます。
「椎地四郎殿御書」の背景と、真言宗について少し考えてみます。なぜ、「真言亡国」なのか?
正法・像法・末法という、いわゆる「三時」というのが、日本仏教ではしばしば語られます。でも、数字がつく仏教概念(法数、ほっすう)は、経典解釈者が、後の時代に便宜的に作ったものであることが多いのです。
大学院で、仏教論理学の文献講読の授業で、担当教授が言った言葉が忘れられません。「法数は、生き生きとした生活の言葉ではなく、『これテストに出るぞ!』という便宜的な言葉です」
『法華経』安楽行品には、法を説かなくていい人には、法を説く必要はない、という「安楽行(安楽な修行)が説かれています。しかし、それは、『法華経』の他の品、たとえば、勧持品や不軽品と矛盾するのではないでしょうか?
「如説修行抄」には、つぎのようにあります(p.503)。ーー天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なりーー『法華経』安楽行品には、四つの安楽な修行によって、安楽な境涯を得ることができるという、とても「安楽」な仏道修行法が説かれています。これは、果たしてどうなのでしょうか?