飯舘村では、少しの変化の兆しを見ることができました。
いつも、おうかがいする牛舎があるのです。飯舘村では、長年の苦労の末、飯舘牛という、ブランド牛の育成の成功し、それが村の名物になっている最中に、原発事故が起こりました。
「ベコ農家」さんたちは、牛を手放さざるを得なかった。
それで、その悔しさを感じようと飯舘村に行った時には、その牛舎に行くのです。
今年、三月に行った時も、7年前のまま、朽ち果てていく建物の光景がそこにありました。
しかし、今回、大きく穴の空いた屋根とか、その雨漏りで朽ちている梁とかが、新しくなっていたのです。
床も磨かれて、いつ牛が入ってきても大丈夫になっていました。
もちろん、試験飼育で、飼ってみる「試み」しかまだできませんが、数少ないながらの「ベコ農家」さんが、挑戦され始めました。
日本有数のドローン製作所である菊池製作所は健在。村の雇用を守っています。
それから、ローカル・エナジーの先頭を走ってるのが、今、福島県です。
日本一の水力発電、日本一の火力発電、そして原発。そこで起こした電力が、首都圏に使われたのですから、たまったものではない。一つの植民地みたいなものです。
ちなみに、江戸時代からです。福島の薪と炭は、海岸線に沿って、茨城から江戸へと運ばれ、自給自足ができない江戸のエネルギー需要を満たしたわけですから。
にもかかわらず、いまだに、猪苗代水系の水利権は、東京電力が持っていて、これだけでも地元に返してもらえれば、なんと猪苗代周辺自治体が、住民から税金を取らなくていい、それ以上の水利権利用料が、地元に入ってくるのです。
水利権を地元に、という運動も起こしつつ、まずは、一番、立ち上げやすい太陽光発電パネルが、福島のあちこちに建っています。
(そのまさに先頭に立って、国際的なローカル・エナジー団体の中心的存在となっている福島県人がいらっしゃいますが、そのかたについては、また後日)
特に、この福島県人のかたの尽力で、飯舘に「飯舘電力」が出来て、村のあちこちに太陽光パネルが設置されています。3月にいった時より、さらに、パネル設置場所が多くなってました。
さて、パネルが目立つ村内。今回、飯舘村が初めてというかたとご一緒だったので、まず、前田地区の豊栄というところを案内しました。
ここには、「豊栄開拓の碑」というのがあります。第二次大戦前、全国の貧しい農家の次男さん、三男さんが、国策として、満蒙開拓に送られました。
そして、敗戦。命からがら逃げてきて、日本に帰ってきたけど、仕事もなにもありません。
そして、国策として、国内の未開拓地に入植し、そこを開拓したら、自分のものになるという「国内開拓」が始まったのです。
浪江町の山側、また飯舘村は、この「国内開拓」の人々が開いていった土地がたくさんあります。
浪江にしても、飯舘にしても、地区によっては、ほとんど、開拓地というところもあります。
もちろん、井戸も、水道も、下水も、耕地も、家もありません。木や草で、掘っ立て小屋を作り、まず、炭焼きなどをして、食うや食わずの生活のなかで、開拓していったのです。
そして、やっとブランド牛や、花卉栽培(飯舘村は花卉栽培でとても有名でした)、稲作など農業で生計が立つようになった時に、原発事故です。
そして、「豊栄開拓の碑」で、先人の苦労を偲んでいたときに、まさに開拓で飯舘に来られた先駆者であり、碑にも、名前が一番先に刻まれている開沼さんの家の前で畑の草を抜いているかたが、こちらを向いて、深々と一礼されているのが見えました。
走っていきたい衝動もありましたが、基本、仕事のなかには入らない、というのが、僕自身のルールなので、一礼をして、その場を後にしました。
そして、そして、思いがけない出会いがあったのです。
飯舘村は、去年の3月31日に、避難指示が解除されたばかりで、それ以前は、村の人も、自分の家に住むこともできない、昼間だけ、家の片づけとかはできるが、夜には村を出て行かなければならない、という環境下にあったのです。
村内には、除染作業員さん(村民より多い作業員さんがお昼には働いています)用の、コンビニが一ヶ所あるだけで、原発事故以前にはいくつもあった食堂や、レストラン、また複数の農家レストラン(これが飯舘村の名物だったのです、エコロジカル・ツアーの先駆的存在でした)は、6年間の避難指示の間に営業撤退を余儀なくされたのです。
農家生活を堪能できる、しかもとてもきれいで大きな入浴施設のある村営宿泊施設「き・こ・り」も、名物の飯舘牛レストランは、まだ閉まっていて、宿泊のみの営業です。(とてもいい施設なので、是非、泊まりにいってください)
村に帰ってきている人も少ないので、また、風評被害もあり、観光客も少ないので、食べ物商売はとても厳しいのですが、
曜日や時間帯を短くして、二軒の食堂が開いています。
一つは
昨年、4月23日(日)、老舗のうどん店「ゑびす庵」が、飯舘村の誇りであり、木造完全バリアフリーの、飯樋小学校(出来たときには、全国から見学者が相次いだのですが、残念ながら、原発事故で廃校です)の向かいの、もともとあった場所で、営業を再開しました。
そして、今年の「3.11」の前日に、飯舘村前田の高倉辰彦さん、君枝さんご夫妻が、大きな農家であるご自宅を改造して、「名前のない店」という名前の、蕎麦屋さんを、オープンしたのです。
豊栄から近かったので(同じ前田地区)、「名前のない店」に行きました。
ものすごく安い、そしておいしい。
食堂というより、飯舘弁が飛び交う、村民の居場所です。
すべての料理に、「しみ餅」という飯舘郷土料理がつきます。よもぎ餅の巨大なものをイメージしてください。よもぎ、もしくは、ごぼうの葉を入れてついた餅で、冬に、凍らせて乾燥させる保存食です。
しかも、デザートに、あまい「しみ餅」が出てくるのです。これ絶品ですよ。
二つの「しみ餅」だけで、おなかいっぱいになり、それだけで、東京では800円取られるぞ、という感じなのですが、
僕は、ざるそばを頼みましたが、普通盛りが大盛り。600円。しみ餅二つ付です。
ご夫妻と、近所の方々が、料理や配膳をしてます。とても繁盛していましたが、「商売」というより、ご近所のかたがたの「井戸端」という感じ。うるさくない、世間話が心地よいです。
そのご近所井戸端会議のなかに、明るい笑い声のお二人がいました。顔を見ると、菅野榮子さんと菅野芳子さんでした。
ご存知のかたもいらっしゃるかもしれませんが、飯舘村を撮ったドキュメンタリー映画、『飯舘村の母ちゃんたち』の主人公のお二人です!
飯舘村の母ちゃんたち|https://www.iitate-mother.com
少し、「世間話」をさせていただき(大阪生まれ、大阪育ちの僕が、飯舘村の世間話ができるというのは、とても、うれしく、光栄なことです。飯舘村に育ててもらいました)、
僕が自費出版した、『「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと』をさし上げました。
目を細めて、最初から最後まで読んでいただき、「ここまで書いてくれて、ありがたいことだぁ」と、お二人でうなずかれていました。
作ってよかったと思った瞬間です。
(つづく、その4は、いよいよ「交流会」です)
執筆者プロフィール
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高校生時代から、ハンセン病、被差別部落、在日、沖縄、障がい者、野宿生活者など、さまざまな「社会の片隅で息をひそめて暮らす人々」の日常生活のお手伝いを。
2011年3月11日以降、東北太平洋沿岸被災地に通う。
大学院時代は、自宅を音楽スタジオに改装。音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J -Pop以外はなんでも聴く。
沖縄専門のFM番組に数度ゲスト出演をし、DJとして八重山民謡を紹介。友人と協力し、宮川左近シヨウや芙蓉軒麗花など、かつて一世を風靡した浪曲のCD復刻も行ったことも。
プロフィル画像は、福島県で三つ目の原発が計画されていた場所だったが、現地の人たちの粘り強い活動で、計画を中止させた浪江町の棚塩。津波で壊滅し、今は、浪江町の「震災ガレキ」の集積場・減容化施設が建設されている。
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