freak74 – 希望と意志の発するところ/大悪大善御書(その2)【無料】

freak72 – 自治と反抗/大悪大善御書(その1)
のつづき

まず、断簡で短いので全文を見てみましょう。

大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか、普賢菩薩の来るには大地を六種にうごかせり、事多しといへども・しげきゆへにとどむ、又又申すべし。

菩薩が出るたびに、地震があったら迷惑でかなわんですよね。
もう来んといてくれ、って感じです。
もちろん、これは『法華経』という「真実を語るフィクション(創作)」の表現方法なんです。「イソップ寓話」を見て、やはりキリギリスは怠け者だ、とは思いませんよね。『法華経』に書かれていることをそのまま受け取るのは、キリギリスは怠け者だと思ったり、アリとキリギリスは、「どんな言葉で会話するのか?」と思うことなのです。

どのような「寓意」をそこに見出すかが、とても大事なことです。
人によっては、いわゆる「生命論」で、「小さな境界をブレークスルーする」と、大地の振動を解釈する人もいるでしょう。
日蓮大聖人は、ここで「社会的な解釈」をしておられます。
大聖人当時は、末法思想が氾濫しており、もう白法隠没だ、もうこの現実の娑婆世界では救いはない。だから、死んでから、極楽に往生し、そこの蓮の花の上で何も妨げない状態で仏道修行をすればいい、という、「アマガエル」みたいなことを、みんな考えたわけです。

正嘉の大地震や、天変地妖、戦乱などの社会的事件は、まさに、末法の闇がさらにさらに、深くなっていく「象徴」として考えられたわけです。
しかし、大聖人は、それを「新しい時代が開ける象徴」として考えた。
しかも、勝手に開いていくのではなく(それやったら、無責任この上ないし、現実に人が死んでいるのだから無慈悲この上ない)、「この私」がよき時代を開いていくことの先頭に立とうと考えたわけです。

大聖人は無慈悲でも無責任でもない。塗炭の苦しみを味わっている人とともに、その「苦しみの大地」に伏しながら、顔をあげて、「希望」と「意志」のことばを発したわけです。

「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」(p.1300)も同じです。
これは、「社会に広がる苦しみ」ではなく、「一人の人の苦しみ」ですが。

「まあ、そのうち春がくるさ」と、高みからのたまうのではく、「共に冬の寒さを耐えている大地」に伏して、「希望」と「意志」のことばを発していらっしゃるわけです。

「どん底から共に見る」視線の温かさと強さ。

画像は近所から夕陽を見たところ

執筆者プロフィール

友岡雅弥
友岡雅弥大阪大学文学部博士課程単位取得退学(インド哲学専攻)
高校生時代から、ハンセン病、被差別部落、在日、沖縄、障がい者、野宿生活者など、さまざまな「社会の片隅で息をひそめて暮らす人々」の日常生活のお手伝いを。

2011年3月11日以降、東北太平洋沿岸被災地に通う。

大学院時代は、自宅を音楽スタジオに改装。音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J -Pop以外はなんでも聴く。

沖縄専門のFM番組に数度ゲスト出演をし、DJとして八重山民謡を紹介。友人と協力し、宮川左近シヨウや芙蓉軒麗花など、かつて一世を風靡した浪曲のCD復刻も行ったことも。

プロフィル画像は、福島県で三つ目の原発が計画されていた場所だったが、現地の人たちの粘り強い活動で、計画を中止させた浪江町の棚塩。津波で壊滅し、今は、浪江町の「震災ガレキ」の集積場・減容化施設が建設されている。

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