「チュース」の声に囲まれて

草木が一斉に芽吹く春は、なんとも美しい。

手袋なしでは生活できないドイツの冬は、本当に厳しかった。雨も雪もよく降る。夏でも夜になると冷え込むので、セーターなどは一年中出しておく。ここには「衣替え」はない。

私の家から少し歩くと森がある。資料の読み込みが一段落したときなど、その森まで散歩に行く。広大な畑を通り、ロバや馬を眺めながら歩く。

その森で、必ずと言っていいほど出会うのが犬たちだ。

殺処分ゼロのドイツで犬を飼うのは本当に難しい。簡単には手に入らない。手続きも必要だ。さらに、飼い主には様々な義務があり、その一つが毎日運動をさせることだ。森に行けば、時間に関係なく犬を連れた人たちとよく出会う。もちろん、飲食店でも、電車の中でも、大学の研究所の中でもだ。

先だって、母と森の散歩に出かけた。

昔、犬に襲われて怪我をしたことのある母は、犬が怖い。

その日も、複数の犬を連れて散歩に来ていた人がいた。私たちの前を通り過ぎたあと、二〇メートルほど先で一匹の犬が座り込んだ。少し大きめのコリーだ。飼い主は、さっさと駐車場の方に行ってしまった。

母と私は、二人でベンチに座り、その犬が早く飼い主のところに行ってくれないかと待っていた。

しかし、そのコリーは、ずっと私たちを見ているのだ。びびったのは母である。何度も何度も「早く行って」を繰り返していた。しかしコリーは動かない。

仕方がないので、母を私の後ろに隠すようにして、そこを通り過ぎることにした。

ところが、近づくとコリーがそっと立ち上がり、ビビる母の後ろについて、時々後ろを振り向いて残っている人がいないか確かめながら、歩調を合わせて歩きはじめた。

待っていてくれたのだ。

吠えることもなく、じっとこちらを見つめ、そっと寄り添うコリーを見て、なんとも言えない気持ちになった。

コリーは、私たちが森の出口から出たのを確認すると、飼い主の車に乗り込んだ。

隣の母は興奮していた。嬉しかったのだ。

その足で、私たちはベーカリーに入った。美味しいパンやケーキとコーヒーを楽しむ人でいっぱいだった。

ケーキを嬉しそうに頬張る母に、ドイツでの挨拶を教えた。ドイツでは、店に入るときも、出るときも、挨拶するのがルールだ。黙って出入りするのはマナー違反なのだ。

「朝はグーテンモーゲン、昼はグーテンターク、夜はグーテンアーベント」。母は、私の言葉に続けて、「グーテンターク」を繰り返した。そして、「店を出るときはチュース(じゃあね、という軽い挨拶)」と教えて、何度も、何度も、練習を繰り返した。

すると、母がトイレに行くために席を立ったあたりで、なんだか店中が緊張してきた。

何かルール違反でもしたかと思って周りを見渡したが、思い当たることはない。

お金も払ったし、飲み終えたものはちゃんと返却口に持っていったし、分別も間違いがなかった。わからないまま、トイレから戻った母と一緒に「チュース」と言って店を出ようとしたら、店中のお客さんから「チュース」「チュース」「チュース」「チュース」と声が飛んできた。なんと、店員さんも母を見て「チュース」と言っている。

みんな、母がドイツ語を練習していたので、出るときには声をかけてあげようと準備していたのだ。「チュース」の声に囲まれながら店を出ると、今度は私が泣けてきた。

母は、東京の自宅付近で、見知らぬ人から「辛淑玉の母親か」と声をかけられ、私への不満をぶつけられていた。実は、そのことがあって、一時母をドイツに呼んだのだ。

84歳の母がドイツまで来るのは大変なことだった。限られた収入の中で、母を何度もドイツに呼ぶのも不可能だ。私にとっては、本当に大事な時間だった。

短い滞在期間ではあったが、母が嫌な思いをせず、排除もされずに時間を過ごすことができたことで、救われたのは私だった。

物心ついたときから働き詰めに働いてきたが、家族の生活を支えるだけで精一杯だった。今の私に、ドイツで親を抱えて生きていけるだけの力はない。

老いた親と、おだやかに暮らすことは、もうできないのだろうな、と思った。親不孝とは、こういうことなんだなぁと。

 

(マスコミ市民’18年5月号より転載)

執筆者プロフィール

辛淑玉
辛淑玉
1959年東京生まれ。在日三世。
人材育成技術研究所所長。
企業内研修、インストラクターの養成 などを行うかたわら、テレビ出演、執筆、 講演も多数こなす。
2003年に第15回多 田謡子反権力人権賞受賞。2013年エイボン女性賞受賞。
著書に、『怒りの方法』『悪あがきのすすめ』(ともに岩波新書)、『差別と日本人』(角 川テーマ21)、『せっちゃんのごちそう』(NHK出版)など多数。

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