Salt4 – 誰が追われて逃げるのか?|テンプテーションズの「ラン・チャーリー・ラン」を巡って (その1)【無料】
ソウル・ミュージックの歴史的存在、ザ・テンプテーションズの第二次黄金時代のボーカル、デニス・エドワーズが、先日(2018年)2月2日に、シカゴで亡くなりました。デニスは翌2月3日が誕生日でしたので、74歳、後一日で、75歳でした。
テンプテーションズの歴史を見ながら、社会と音楽とが激しく交差した60年代から70年代を振り返りたいと思います。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
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ソウル・ミュージックの歴史的存在、ザ・テンプテーションズの第二次黄金時代のボーカル、デニス・エドワーズが、先日(2018年)2月2日に、シカゴで亡くなりました。デニスは翌2月3日が誕生日でしたので、74歳、後一日で、75歳でした。
テンプテーションズの歴史を見ながら、社会と音楽とが激しく交差した60年代から70年代を振り返りたいと思います。
『法華経』は、仏が入滅したあとの「無仏の時代」に、自分はどう生きるべきかを、熟慮した人たちが創作したものです。どう生きるべきか――それは仏がなしてきた行いを、自分もなしていくということを、「仏教の本質」と考えて、それを具体的に実践していくことです。
第1章1節に関するコラム。哲学の最も広い意味合いは「原理原則」や「根本原理」の探求であるから、その学びを通してその人の人生哲学を構築することも可能である。しかし、安直でコンビニエンスな人生訓や自己啓発の如き有象無象とは程遠い立場である点には留意すべきであろう。
追悼 山里勇吉先生。山里勇吉先生が9日に亡くなられ、その追悼文を書きました。
疑うことなく考えることのない世界は楽チンかも知れませんが、それでも「みんながそう思っているのだから、なんでおまえはそう思わないの?」っていうのばかりなってしまうのは少し窮屈ですよね。「確実性」を求めるデカルト的省察(疑い)は、何の手続きをも経ないで「確実性」と「思いこむ」感性よりは、少し彩り豊かな世界を、僕たちのまえに見せてくれる筈です。
放佚無慙に居直りを決め込むのでもなく、極端な「かくあるべし」の奴隷になるのでもない在り方は可能なのだろうか。歩きながらいくつかのオルタナティブを考えてみたい。
私たちは、それが不当であると理解しつつも、昔から続いている慣習だから変えてはならないと思うとき、それを「常識」として捉え、その非常識さを考えないようにすることがよくある。しかし、常々不満を口にする対象である「非常識」は果たして「常識」なのだろうか。今一度問うべきであろう。
放佚無慙に居直りを決め込むのでもなく、極端な「かくあるべし」の奴隷になるのでもない在り方は可能なのだろうか。歩きながらいくつかのオルタナティブを考えてみたい。
筆者は2003年4月から足かけ13年あまり、創価女子短期大学において教養科目の「哲学入門」を担当してきた。哲学というと、堅苦しいイメージがあるが、人間が困った時、考え直そうとした時、その原点となる考える材料というのはその実相である。本連載では、学生に配布した講座「哲学入門」のレジュメを下敷きに、筆者自身の「哲学入門」を改めてまとめてみた。「哲学」とは憶えるものではなく「哲学する」ものだが、その一助になれば幸いである。
本連載では、いわゆる古典名著と呼ばれる、主として哲学や文学に関連した著作を紹介する。古典名著とは先人たちの悩みとの格闘の軌跡のこと。その格闘を参照することは現代に生きる私たちにとっては何より糧になる。人間にしか出来ない読書という営みを通して「人間とは何か」を考えてみたい。