Lwp21 – 日本社会の外国人排斥は、「ふつーの日本人」たちのデフォルトではないだろうか【無料】
「人の良いオッチャンや、優しそうなオバハンや、礼儀正しい若者」たちは、事実とは異なる神話をもとにした外国人に対する「心のなかに潜む小さな憎悪」を持っている。だとすれば「ふつーの日本人」は、ヘイトスピーカーたちと地続きかも知れない。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
放佚無慙に居直りを決め込むのでもなく、極端な「かくあるべし」の奴隷になるのでもない在り方は可能なのだろうか。本連載では、そのいくつかのオルタナティブを考えてみたい。表題は思想家ソローのエッセーに倣ったもので、「生き方の原則」とでも訳せばよいか。優しい甘言を退けながら、時評と書評でその材料を提供してみたい。
「人の良いオッチャンや、優しそうなオバハンや、礼儀正しい若者」たちは、事実とは異なる神話をもとにした外国人に対する「心のなかに潜む小さな憎悪」を持っている。だとすれば「ふつーの日本人」は、ヘイトスピーカーたちと地続きかも知れない。
市民が自由に集い、図書を媒介に会話を楽しんだり、時には結婚式や市民討論が開かれたり…。図書を介して新しい考え方や生き方に触れることもあるだろう。カルティベイトできる「知の広場」こそ図書館である。
文明開化の立役者である福澤諭吉は、西洋文明の礼賛者だったという評価がありますが、果たして正しいのでしょうか? 福澤の文明論を紐解くと、文明の本質とは、単純なイノベーションの礼賛ではないことが理解できます。
「平等」と「開放性」を軸とした「西洋」そのものが没落の危機に瀕している現在、安易な東西批判を乗り越え、人間そのものを大切にする仕組みをいかに立ち上げていけばよいのか。「生の世論」(大衆民主主義)は熟議を経て「洗練された世論」(熟議民主主義)へと転換する。
「門閥制度は親の敵でござる」とは福沢諭吉の言葉だが、能力や道理よりも血縁や地縁といった縁故が優先され、個人が圧殺されるどころか、社会が前に進まない。だからこそ、その負荷を否定し、「天は人の上に人を造らず」と宣言し、人間の平等・対等関係に基づく社会を構想したはずなのに、この国ではいまだに「縁故主義」が幅を利かせているのではないだろうか。
通常我々は、他者に依存しない自立した生活を範とするが、それ自体が妄想かも知れない。お金は様々な物質やサービスを数値化し、値札を貼るからお金が必要不可欠になってしまう。しかし数値化を退け、お互いに助け合うことで、お金への依存度を逓減できるのだ。
なぜ「がんばっているのに上手くいかない」のか? それは自分自身に原因があるというよりも、時分自身が生きている環境にあるのではないか。がんばることは美しいと思うが、がんばる前に「ちょっと考えたい」。
なぜ、優秀な人材が、道理のみならず、法令まで無視して、権力への忖度を続けるのだろうか。それが結果として国民を欺く暴挙(=公僕としての自らのレゾン・デートル自体を否定することともイコール)になろうとも。
差別是正の活動から始まったポリティカル・コレクトネス。さしあたりの不正義を回復していく話し合いを求めていくことを、「ポリコレ疲れ」として切り捨てる感覚こそ人間の存在に対して不誠実なのではないか。
日本は、もはや工業立国ではないこと、日本はもう成長社会に戻ることはないということ、日本はもはやアジア唯一の先進国ではないということ。下り坂を下りながら「子育て中のお母さんが、昼間に、子どもを保育所に預けて芝居や映画を観に行っても、後ろ指をさされない社会を作る」しかない。