Lwp62 – 十五、六歳の頃、ブルックリンの通りを、わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた。

十五、六歳の頃、ブルックリンの通りを、わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた。その一部を読んで、余りよく理解できなかったけれども、わたしは感激し、なんとくなくすばらしさを感じていた。年上の人がこの本を抱えているわたしに気がつき感心して、肩をぽんとたたいて、何か言ってくれないかとわたしはどんなに望んでいたことだろう。でも何を言ってもらいたかったのかたしかなところは分からなかった……
 時折わたしが思うことは、不安がないわけではないが、十五、六歳の若者は大人になったら何になりたいと考えているのだろうかということだ。この本が若者の気に入ってくれることを望みたい。
 今ふとわたしの心に浮かんだのは、若い頃に探し求めていた認識と愛が、大人になったらなりたいと思っていたのと違った結果になったのではないかということである。もしわれわれが成人に達するのはわれわれの親の親になることによってであるなら、そしてわれわれが成熟するのは両親の愛に代わる適当なものごとを見出すことによるのであるならば、われわれ自身がわれわれの理想的な親になることによって、最終的に円環は閉じられ、完全さに到達することになるだろう。
(出典)ロバート・ノージック(井上章子訳)『生のなかの螺旋 自己と人生のダイアローグ』青土社、1993年、476頁。

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