ウジケ訊2 – 「世の中が狂っているのに、なぜ関心を持たないのかイライラします」【無料】

【質問】

ハンドルネーム:コゼット
ウジケ先生、こんにちは。政治哲学を勉強している大学生です。政治思想史を学べば学ぶほど、現在の行く末を危惧します。個人の尊厳をそこなう政治の暴走と国境を超えた地球的問題群への後手後手の対応に、あせりと苛立ちを隠すことができません。こうした危機的な状況を前にしながらも、「そういうことは、どうでもいい」「なにも変えることは出来ない」といい、就活や遊びにかまける友人をみるにつけ、頭にくるのですが、どうすればいいのでしょうか?

【ウジケさんの応答】

こんにちわ。ウジケさんです。ご質問といいますか、あせりや苛立ち、そして頭にくることは、おそらく、あなた以上に理解できていると思います。ただ、先に言及すれば、あせりや苛立ちや、頭にくることは事実なのですが、それでも、あせりや苛立ちでは解決できませんよね。それをどのように超克していけばよいのかという問題になります。

いわゆる20世紀型の社会変革運動の限界と挫折が、このようなあせりや苛立ち、そして頭にくることを優先させて、いわば「就活や遊び」を否定したことに由来することは、紹介するまでもありません。

問題のある社会を前にして、どうしてそれをスルーして自己自身を優先するのだ!というそれです。そしてそういう志士きどり、あるいは職業革命家きどりが共感を得るどころか、反発を招き、社会を変革することできなかったのが歴史の証明するところではないでしょうか。

政治哲学を学ばれているのであれば理解できると思いますが、公共的なるものと、個人の生活を、対立するものとして受容することがその落とし穴になっているとウジケさんは考えます。現実には相反するものとして両者はカテゴライズされておりますが、実際のところは決してそうではないわけですから、それをどう丹念に丁寧に架橋していくのかということが課題になってくるわけです。政治思想史における先駆者であるジョン・ロックの課題もいわば、この問題との格闘といっても過言ではありません。詳しくは加藤節先生の『ジョン・ロック 神と人間との間』(岩波新書、2018年)をお読みいただけると幸いです。政治なるものが不可避に個人の生活に介入してくる以上、それとどう向き合うのかということを考えるうえで、一つの見本になると思います。

さて……。

ウジケさん自身もどちらかといえば「あせりと苛立ち」を抱えた人間であり……そして、そのことで「ウジケさんはこじらせたひと(笑)」などとお褒めを職場や家庭で頂いております。が、具体的に言えば、「こじらせた」側と、そして「そういうことは、どうでもいい」「なにも変えることは出来ない」側の分断を強調して終わりにするのではなく、どのように有機的に接続させていくことができるのかにいまはウェイトを置いております。

先日、『朝日新聞』1面に連載されている鷲田清一先生の「折々のことば」(2018年10月18日付)に「都会の大書店から沖縄へ転勤となったが、一念発起、勤めをやめ那覇の公設市場前で小さな古本屋を開いた」宇田智子さんの『市場のことば、本の声』(晶文社、2018年)が紹介されておりました。

いわく、

「恋人になると誓うより、仕事への志を語るより、心を本当に励ましてくれるのは日々の小さなできごとだ」。

鷲田先生は「店がなければ会えなかった人たちとの日々の細やかなやりとりのほうが今は遥かに大切だと。布の模様をなすのは糸の一本一本」と解説されておりました。

この警句をよみながら、新渡戸稲造の口癖にならえば「ああ、ここだな」と机をトントンと叩いてしまいました。

日常生活と公共世界が連続しているにもかかわらず、その断絶に絶望するのではなく「布の模様をなすのは糸の一本一本」であるように、そこで相互に理解し合い、開拓してゆかなければらないのではないかと思いました。

ウジケさんは、最近、ライフハック的に、日々の記録を綴るライフログをつけ始めました。きっかけは、大好きな万年筆でアナログ的に「ものかき」をしたいという動機ですが、それでも記録を読み直していくと(ライフログの要は記録をすることよりも読み直しといいます)、「心を本当に励ましてくれるのは日々の小さなできごとだ」ということを実感しています。

鋭利な学問的言説は大切なんですよ。

ことがらの歴史的経緯や言説を丁寧に検証して、現在進行系の事象が誤っていることをきちんと批判していくことは知識人のレーゾンデートルであると考えていますから、ウジケさんは、日常生活に「撤退」してしまうことは柔軟に退けていかなければならないと思いますし、そのように社会的に実践しております。

しかし、そこから発せられる指摘が杓子定規な「お前ら、アホか!」で終わっても意味がないなんですよね。これは先に言及した20世紀型の限界という奴です。そうではなく、日々の小さなできごとの中で、お互いにハッと気がついていくようにも務めなければならないという話です。

先日、職場で「ウジケさん、最近、女らしくなったよ!」って褒められました。

まあ、ウジケさんは……こういう言葉を使いたくはないのですが……世俗的には「女々しい」と評価される人間性溢れる人物なのですが、今回の場合はそうではありませんでした。

要は、よく気がつき、前もって段取りできる人間に成長したね!って話でした。お褒めくださった職場の先輩は、ハッとして「ごめん、ごめん、性別役割分業の問題は理解してるからネ」と苦笑いしていました。

例えばですが、問題を指摘することは簡単ですが、それをどう理解してもらうかのか、ということが大事になってくるのではないでしょうか。

人類が長い時間をかけてそれを普遍的な原理へと昇華させてきた努力に比べると、一見するとそれとは程遠いような「日々の小さなできごと」です。しかし、そこには、励ましだけではなく、叡智のヒントも宿っているように思えます。

やっぱり「お前らアホか!」みたいな「あせりと苛立ち」で終わらせては不毛になるような気がします。

表紙の写真は、ボノボンチョコレートです。はじめて食べました。

「アルゼンチン生まれのキャンディ型のチョコレート。外側のチョコレート、その下のウエハース、そして中央のチョコレートクリームの3層が織り成す『パリッ、サクッ、フワッ』とした食感が、絶妙なバランスで美味しさを作り出し、世界60カ国以上で親しまれています」というもので、秋から晩冬にかけてのみ発売されている商品だそうです。

先日、職場の同僚たちが「これが美味しいよ!」と教えてくれました。これまでのウジケさんなら「そういうジャンクフードは食べません(キリッ」みたいな、なんて言えばいいのでしょうか……お菓子を食べるにしても最高級品を食べるべきだ!みたいな「いけ好かない野郎」だったのですが、そういう有意味性とは全く無縁の規範意識などかなぐり捨ててみました。

実際に、はじめて食べてみると、「パリッ、サクッ、フワッ」という食感がなんともいえませんね。

チョコレートの味わい広がるハーモーニーに、ウジケさん自身こそ、日常生活をあまり大切にしていなくて、日常生活に関わっていかなければならないことを横においたまま、生活とは無縁のような議論だけを徒手空拳していたことを猛省しております。

誰でもそうですが、明日から全く違う人間に生まれ変わって生活するとか、世界に関わっていくということは不可能ですよね。現在に問題があるから変えなければならないとしてもです。

例えば、バリバリ勉強して授業でも積極的に発言していくぞ、と思うことはたやすいのですが、いきなり変わるというのは無理です。

ウィリアム・ジェームズというプラグマティズムの哲学者は、まずはちょっとだけ決意することが大切だと説きます。そうすることで少しだけ行動が変わっていく。ちょっとだけ行動を変えていくことを繰り返していると、それがだんだんと新しい習慣になり、変えていく前の状態、すなわち改めようとすべき状況を更新していくことにになります。

そうした小さな積み重ねであっても、結果としては大きな一歩になるわけですから、最終的には変えてゆきたかった人格も変わっていくとジェームズは説きます。こういう手続きこそ、大きな問題であろうが小さな問題であろうが、変革を促していくことになるのではないでしょうか。

すべてはこういうところから始まると考え、ウジケさんは思索と実践を積み重ねています。

さて……。

知識人と呼ばれるひとたちが、道理や原則を大切にしようと考えるのはなぜかと言えば、そういう気づきや喜びの現場である「生活」を守っているのは、普段は「空気」のようにその「ありがたさ」を感じることができない道理や原則であるからです。

だからこそ、そうした「空気」の如き安全弁が危機的状況になっているときには、「あせりと苛立ち」をつのらせても一歩も前進しませんから、丸山眞男チックに言及すれば、生活へ撤退するのでもなく、運動へ惑溺するのでもなく、だと考えます。

蛇足かも知れませんが、最近、「雑談ができないのは、本当にピンチです」という文章を寄せましたが、こちらも参考になるかと思います。

Lwp67 – 雑談ができないのは、本当にピンチです

 


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執筆者プロフィール

氏家法雄
氏家法雄アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者
氏家法雄 アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者。1972年香川県生まれ。慶應義塾大学文学部文学科(ドイツ文学)卒。立教大学大学院文学研究科組織神学専攻後期博士課程単位取得満期退学。鈴木範久に師事。キリスト教学、近代日本キリスト教思想史、宗教間対話基礎論を専攻。元(財)東洋哲学研究所委嘱研究員。千葉敬愛短期大学(倫理学)、創価女子短期大学(哲学)、創価大学通信教育部にて元非常勤講師。論文には「姉崎正治の宗教学とその変貌」、「吉野作造の『神の国』観」、「吉満義彦の人間主義論」など。ええと「うじいえ」ではなく「うじけ」です。

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