哲学入門57 – コラム:西洋の没落とヨーロッパの不安【無料】

前回の哲学入門では、現象学から出発し、フッサールとたもとを分かつハイデガーの哲学を紹介した。合理的であることや共通了解の再構築をフッサールは目指したが、それに対し、ハイデガーは、自身が生きている時代を人間がその生の根拠を失った時代と認識し、人間の生きている意味を問う哲学を構築しようとしたのである。

人間が生きる意味を問い直すことが決して無益ではない。ソクラテスは哲学とは「善き生とは何か」を探求するための標と考えたが、人間が生きる意味を問い直すうえで、哲学とはそれをサポートするものたりえる。しかし、生きる意味を問い直す営みは、ややもすると神秘的志向と交わりやすいのも事実である。故に伝統的に哲学とは合理性や明晰さを重視して来たのである。そうしたフッサールの目指す光と対照する影にハイデガーはのめり込んでしまうのだが、そこでドイツの民族の使命や目的と調和し、ナチズムへ接近してしまうのである。

ハイデガーは、第一次世界大戦後のヨーロッパ世界を自信喪失と不安の時代と認識した。当時のこうした時代思潮はハイデガーに限られたものではない。もっともそれを象徴するのはシュペングラーの『西洋の没落』であろう。ヨーロッパ文明が自身を喪失し、不安の時代に新しい価値観を求めた人々の気分とマッチして、ベストセラーとなった。シュペングラーの文明観はいたって簡単である。文明を生物のような一種の有機体とみるものである。生物が誕生し、成長し、栄え、そして滅ぶように、文明も同じサイクルを繰り返すと考えたのである。したがって絶頂にあったヨーロッパはこれから没落の時期にあたると警鐘したのである。

翻って現代日本社会を俯瞰すると、同じような匂いが濃厚である。バブル崩壊以降、「失われた20年」という、発展の頂点であった戦後日本の栄光から転げ落ちるその時代とは、第一次世界大戦後の「自信喪失と不安の時代」と似たような時代精神が社会をリードしている。

バブル期に流行したのが「自分探し」である。他者からの承認を得ることが最も早道かもしれないが、中途半端な内省は、空虚な自己を直面させたに過ぎない。その反動ゆえなのか、民族や伝統、あるいは国家といった、空虚な「仮象」に自己を一体化させることで安心立命させようとするブームが、その延長線上として浮上している。そのことに筆者は狂気を覚えている。歴史から学べば学ぶほど、これは必然の恐怖である。

「世にも優れた人よ。あなたは、知恵においても力においてももっとも偉大でもっとも評判の高いこのポリス・アテナイの人でありながら、恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思慮や真理や、魂というものができるだけ善くなるようにと配慮せず、考慮もしないとは」とはソクラテスの弁明である。

不安で自信喪失の時代だからこそ、合理的な、あるいは他者との相互批判的な検証的態度で自身を誠実に徹底的に精査し、不安を超克していくべきではないだろうか。これが思想家の態度であると筆者は考える。哲学とは神話や宗教を乗り超える試みであるからこそ、易きおもねりのごとき精神性に依存してはならないし、所詮浮世の徒花にしか過ぎない栄誉で安心してはならないのである。

そんな試練の道は、言説に責任をもつべき知識人の責務だが、巷で声高される空威張りやプライドの安売りも柔軟に退けたい。

いま必要なことは、弱いから不安である、だから強くならなければならない、そして民族や国家を高調するという歴史上何度も繰り返されてきた負のスパイラルではなく、弱い自己を弱い自己であると認めた上で、空威張りとは無縁な、お互いにゆるくつながり、「考える葦」としてか細い弱い人間が相互に快適に暮らしていく社会へとスライドさせることで自身を回復していくべきではないだろうか。

哲学入門56 – 前史(15) 現代思想概観(4) 現象学からハイデガーへ(1)

執筆者プロフィール

氏家法雄
氏家法雄アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者
氏家法雄 アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者。1972年香川県生まれ。慶應義塾大学文学部文学科(ドイツ文学)卒。立教大学大学院文学研究科組織神学専攻後期博士課程単位取得満期退学。鈴木範久に師事。キリスト教学、近代日本キリスト教思想史、宗教間対話基礎論を専攻。元(財)東洋哲学研究所委嘱研究員。千葉敬愛短期大学(倫理学)、創価女子短期大学(哲学)、創価大学通信教育部にて元非常勤講師。論文には「姉崎正治の宗教学とその変貌」、「吉野作造の『神の国』観」、「吉満義彦の人間主義論」など。ええと「うじいえ」ではなく「うじけ」です。

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