市町村の広報紙の「おめでた」欄への違和感
市町村が発行する「広報紙」には、「赤ちゃん誕生」や「おめでた」と題した子どもの誕生を地域に伝えるコーナーがあるそうです。子どもと一緒に香川県に赴任した記者がちょっとした疑問を持ち、まずは香川県を対象にその「なぜ」を調査したそうです(出典、「広報紙 おめでた欄の『なぜ』男性ばかり」、『朝日新聞』2019年6月25日(火)付香川版)。
その疑問とは、次のような素朴なものです。
「なぜ保護者欄が1人だけ?」
「なぜ男性ばかり?」
赤ちゃん誕生を祝うコーナーをもうけているのは、香川県全8市9町のうち2市8町とのことです。このうち、県内最小の直島町だけが、「お父さん お母さん」として男女の名前を並べているそうで、あとは1人分の記載、あるいは、保護者の名前掲載なしだったそうです。
各市町村の担当課に尋ねてみたところ、次の回答が一番多かったそうです。
「ずっとこの体裁なので」
もちろん、個人情報保護を目的として保護者名を載せない自治体はありましたが、ひとり親、事実婚など家族の多様なあり方が広がるなかで、そうした配慮については「痛いところをつかれた」という反応もあったりします。ある自治体では「一人分だけの経緯はわからないし、それが何か問題ですか」と居直りを決め込むところもあったそうです。
要するに、「前例を踏襲しているだけ」というのがほとんどで、このことは、おそらく香川県だけが特別な事例でなく、日本のつづうらうらで見られる現象ではないかと思われます。
日常生活を円滑に遂行させる前例主義の盲点
「前例を踏襲しているだけ」「過去の見本をならい」「ずっとこの体裁なので」等など、お役所組織に蔓延する前例主義を批判することはいともたやすい行為です。しかし、筆者が注目したいのは、これはお役所だけに限定される問題ではないということです。
役所や会社が前例主義に陥るのは、前例にならって仕事をしているからです。仕事を始めた時というものは、効率が悪いものです。しかし、試行錯誤を繰り返す中で、手順が決まり、意識しなくてもそのパターンでこなしていける筋道が決まってきます。この仕組がいったん出来上がってしまえば、前例にしたがうことで逐一考えずに、自動的に仕事がこなされ、そのぶん、効率がよくなります。一般的には状況が変わらないときにこれはうまく機能します。
しかし、変化が急速で激しいとき、あるいは、前例に従って仕事をしているにも関わらずトラブルが相次ぐ時、それは見直しを迫られるものです。そしてそのことは、繰り返しになりますが、私たちの暮らしにおいても同じではないでしょうか?
前例に従って、あるいは、何も考えずに暮らしが遂行されていることは、「うまくいっている」と理解することは不可能ではありません。しかし、それは様々な前例が良いことなのかあるいは悪いことなのかという検討を経ない立場になりますから、悪しき前例を温存させてしまっていることをも意味します。暮らしのなかに潜在するお役所根性といってもいいでしょう。
暮らしの「デフォルト」の点検の仕方
暮らしのなかにおいて、例えば(前例主義の)悪しき代表事例を取り上げるならば、性別役割分業とよばれるライフスイタイルが該当します。
「前例を踏襲しているだけ」「過去の見本をならい」「ずっとこの体裁なので」性別役割分業は温存されています。家族社会学の知見を参照するならば、極めて近代に捏造された神話であるにもかかわらず、いまだに私たちの暮らしの「デフォルト」になっていることは否定できません。
女は女らしく、男は男らしくが、巨悪だと言うつもりはありません。しかし、過剰なまでの規範意識が、人間が自由に、人間らしく生きていくことを妨げているのは、事実です。だとすれば、私たちが、何も考えずとも暮らしが機能してしまう「前例」や「当たり前」だと設定していることがらについては、そのまま放置して良い訳はありません。
哲学とは、身近なものごとに注目してそこで発見し、自分自身で改めて考えてみることから始まる学問です。
デカルトは、真なるものを探究するための4つの規則を次のように表現しています。
第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。(中略)
第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順番がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
(出典)デカルト(谷川多佳子訳)『方法序説』岩波文庫、1997年、28-29頁。
例えば、こうした手続を暮らしのなかに落とし込んでみるのはどうでしょうか?
(1)ものごとのただしさというものは、与えられてかくあるものではありません。まず自分で確認することから始めるほかありません。
(2)そして、一見すると単純そうに見える私たちの暮らしも複雑な要素が入り組み合っています。だからこそ、その糸を解きほぐし、ひとつひとつを検討することが肝要です。
(3)そして、それを矛盾のないかたちで、詰めていき、
(4)何度も見直しや反省を繰り返し、見落としがないかを確認した上で、認識を更新していく。
哲学の方法は、実は暮らしとは無縁ではありません。
「前例を踏襲しているだけ」「過去の見本をならい」「ずっとこの体裁なので」といわれるもののなかにこそ、矛盾や間違いが潜んでいるものです。
執筆者プロフィール
- 氏家法雄 アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者。1972年香川県生まれ。慶應義塾大学文学部文学科(ドイツ文学)卒。立教大学大学院文学研究科組織神学専攻後期博士課程単位取得満期退学。鈴木範久に師事。キリスト教学、近代日本キリスト教思想史、宗教間対話基礎論を専攻。元(財)東洋哲学研究所委嘱研究員。千葉敬愛短期大学(倫理学)、創価女子短期大学(哲学)、創価大学通信教育部にて元非常勤講師。論文には「姉崎正治の宗教学とその変貌」、「吉野作造の『神の国』観」、「吉満義彦の人間主義論」など。ええと「うじいえ」ではなく「うじけ」です。
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