名著を読む5 – カント『啓蒙とは何か』を読む

 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。
−−カント(中山元訳)「啓蒙とは何か」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫、2006年。

◇ 啓蒙に対する誤解

啓蒙という言葉を日常生活で使われる方って読者の中にはいらっしゃるでしょうか? 管見の限りでは、日常生活の中では、ほとんど使われる方はいないのではないかと思われます。聞き慣れない言葉かも知れませんが、例えば、人々に正しい知識を与え、理性的な考え方をするように教え導くことだ、などと言われると、啓蒙「された」経験のある方は多いのではないかと思います。
しかし、啓蒙「された」経験というのは、あまり楽しい記憶としては残っていないのだと推察します。なぜなら、それは、学校教育に代表されるように、知っている者が、知らない者に対して一方的に知識を詰め込んでいくというイメージや実態に由来するからです。
知識は無いよりはあったほうがいいことは否定できない事実です。ものごとをよく知っている、よく理解している、最新の知識を手に入れている云々……。どのような家庭や職場や教育環境であろうが、この事実を否定することは不可能です。しかしながら、知識や理解の多寡が、よりよい生活を創出することや問題解決への直結とは同義ではないことを私たちはよく知っています。
だからでしょうか−−。あらかじめ知っている者が、そのことがらを知らない者に対して一方的に知識を詰め込んでいくということに対して、私たちは生理的な嫌悪を憶えるのでしょう。その教授の過程において、私たちはその使い方を教わることもほとんどありませんから、詰め込まれてしまっても「困る」というのが人情だと思います。
知識や理解の多い・少ないという意味で計測するならば、今回取り上げる名著の著者であるイマヌエル・カント(1724−1804)が生きた時代よりも、現代に生きる私たちは、格段に豊富なそれを身に着けております。ですが、人間としてよりよい生活をしているのかと考えると、疑問に思うことがしばしばあるのではないでしょうか。カントが生きた時代よりも、人々が公正にあつかわれるようになったことは一つの進歩ですが、家庭から国際社会の関係に至るまで、諍いごとは、むしろ多くなったのが事実です。カントが生きた時代の人間よりも現代の人間の方が進化しているかと問えば、疑問が残ります。
さて、啓蒙についてカントは、本書で「それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ」と言います。「人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ」という言及に注目するならば、私たちが啓蒙という言葉で理解している知識の多寡云々が「啓蒙」の本質ではないことになります。

◇ 不自由であることが、実は楽チンな生き方?

わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。
−−カント(中山元訳)「啓蒙とは何か」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫、2006年。

イマヌエル・カントは、18世紀ドイツを代表する哲学者で、高校の世界史や倫理の教科書にも名前が出てくるような有名な人物ですが、その思想はひときわ難しいことでも有名です。今回取り上げた『啓蒙とは何か』という著作は、邦訳で20ページ程度の短著ですが、カントの著作のなかでは非常に読みやすい1編であるとともに、カント哲学の核心を著したものでもあります。カントを読み始める最初の一冊として取り上げてみました。
テーマはずばり「啓蒙」についてですが、私たちは、啓蒙を何か上から目線で知識を教え込まれて大人になることと理解しておりますが、カントの大胆な定義を参照すると、それは虚偽にすぎないことが理解できると先ずは確認しました。
では、未成年の状態を脱出するために必要はことは何でしょうか。カントによれば、「知る勇気をもて」、「自分の理性を使う勇気をもて」ということになります。端的に言えば、自分で考えるということです。真理を誰かに教えてもらうこととは、自分で考えるということではありませんし、それは「知る勇気」を持つということと最も程遠いあり方ともいえます。
ものごとを自分で考えるのを避けたり、自分のかわりに他人に考えてもらい行動することとは、非常に楽チンな生き方です。私たちは、他人の指導に従うことは行動が制限されることですから、忌み嫌うのではないかと思いがちです。しかし、それは錯覚です。社会心理学者のエーリッヒ・フロム(1900−1980)は、ファシズム研究の名著『自由からの逃走』のなかで、自由を享受するには、それを引き受ける孤独に耐えることができなければ、人間は簡単に自由を手放してしまうと論じています。

「そのように決まっているのだから、黙って合わせておけばよい」。
「わかっているひとにまかせておけばよい」。
「わざわざ考えるまでもない」。

「寄らば大樹の陰」ということわざがありますが、私たちは、他人に制限されて生きることを、心地よい楽な生き方と受け容れて生活しているのがその実情ではないでしょうか。その病因をカントは「人間の怠慢と臆病」に見出しますが、こうした錯覚に真正面から挑戦するのが啓蒙ということになります。

◇ 自由に独立独歩に思索して生きる

<啓蒙>の特徴である<脱出>とは、我々を<未成年>の状態から脱却させる過程である。カントの言う<未成年>の状態とは、理性を使用するのが妥当な領域において、我々が活動する時に誰か他人の権威を受け入れてしまうような、私たちの意志の状態のことだ。
−−ミシェル・フーコー(石田英敬訳)「啓蒙とは何か」、小林康夫、石田英敬、松浦寿輝訳−−『フーコー・コレクション〈6〉生政治・統治』ちくま学芸文庫、2006年。

現代フランスを代表する思想家ミッシェル・フーコー(1926−1984)の言葉を借りれば「カントの言う<未成年>の状態とは、理性を使用するのが妥当な領域において、我々が活動する時に誰か他人の権威を受け入れてしまうような、私たちの意志の状態のことだ」ということです。
では「誰か他人の権威を受け入れてしまうような」<未成年>の状態を脱出する=啓蒙とは、どのように遂行されるのでしょうか。<未成年>の状態とは、盲目的に権威にすがる楽チンな生き方ですから、その金縛りを解き放って生きるということになります。カントによれば、ずばり「自由」ということです。
私たちの日常生活とは、不自由であることを自由と取り違え、隷属していることを啓蒙されていることと錯覚していることではないかと、これまで指摘してきました。隷属した状態が不自由の本質であるとすれば、自らの足でしっかりと大地に立ち、自前の頭でしっかりとものごとを考え、その事柄に対して責任をもって生きることが、金縛りを解き放ち自由に生きるということの本質ではないでしょうか。
自分で考え責任をもって生きるということは、そのことに不慣れな人間にとっては、非常に大変なことです。そのはじめての一歩は、よちよち歩きのようなもので、筋力の弱った足で歩きだすのは勇気のいることです。不自由や隷属は、危険だと脅かして尻込みを期待しているでしょう。しかし、歩きだしてしまえば、その歩みはやがてしっかりとした一歩へとなりえることは必然です。
啓蒙とは「知る勇気をもて」「自分の理性を使う勇気をもて」ということですが、これは自由な責任ある人間として歩みはじめようとする人間(=自らを啓蒙していこうと努力する人間)への励ましのようにも聞こえます。

 このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみずからを啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれば、公衆が未成年状態から抜けだすのは、ほとんど避けられないことなのである。
−−カント(中山元訳)「啓蒙とは何か」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫、2006年。

◇more study

読みやすい入門書としては、石川文康『カント入門』(ちくま新書、1995年)、石川文康『カントはこう考えた 人はなぜ「なぜ」と問うのか』(ちくま学芸文庫、2009年)がおすすめです。カントの思索を追体験するには、熊野純彦『カント 世界の限界を経験することは可能か』(NHK出版、2002年)が便利です。
ただ、どの思想家でもそうですが、解説書・入門書の類には限界がありますから、できれば邦訳でも結構ですので、原著にあたるということが大切になります。ただカントの場合、いきなり『純粋理性批判』を読んでも・・・涙 という実情がありますので、今回取り上げた「啓蒙とは何か」を載せている中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(光文社古典新訳文庫、2006年)収録の「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」、「万物の終焉」、「永遠平和のために」から読み進めるのがいいと思います。その次は篠田英雄訳『プロレゴメナ』(岩波文庫、2003年)、篠田英雄訳『道徳形而上学原論』(岩波文庫、1976年)へと進むのがひとつの順序になると思います。
先に「いきなり『純粋理性批判』を読んでも」といいましたが、「ちんぷんかんぷんでした」ってなりましても、そこで「終わり」にせず、何度でもトライしていくという経験も、ある意味では大事なのだとは思います。

名著を読む6 – カント『啓蒙とは何か』を読む2

執筆者プロフィール

氏家法雄
氏家法雄アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者
氏家法雄 アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者。1972年香川県生まれ。慶應義塾大学文学部文学科(ドイツ文学)卒。立教大学大学院文学研究科組織神学専攻後期博士課程単位取得満期退学。鈴木範久に師事。キリスト教学、近代日本キリスト教思想史、宗教間対話基礎論を専攻。元(財)東洋哲学研究所委嘱研究員。千葉敬愛短期大学(倫理学)、創価女子短期大学(哲学)、創価大学通信教育部にて元非常勤講師。論文には「姉崎正治の宗教学とその変貌」、「吉野作造の『神の国』観」、「吉満義彦の人間主義論」など。ええと「うじいえ」ではなく「うじけ」です。

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