freak10 – 橋を超えて
京都の北、岩倉には「目なし橋」(差別的な言葉ですが、固有名詞であり、またその歴史をこれから語りたいので、そのままにします)という橋があります。
この橋の北側には、差別を受けた人たちが、また、その身内が、何とか生き抜こうとした歴史的痕跡が刻まれています。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
京都の北、岩倉には「目なし橋」(差別的な言葉ですが、固有名詞であり、またその歴史をこれから語りたいので、そのままにします)という橋があります。
この橋の北側には、差別を受けた人たちが、また、その身内が、何とか生き抜こうとした歴史的痕跡が刻まれています。
第四回目です。浪江町、飯舘村などの、原発から離れて町づくり、村づくりを置きなってきた地域の歴史について、その開拓の始まりの苦労を述べてきましたが、今回は、その後の開拓の労苦、そもそも、その地が農耕について、とても困難を伴う場所であったこと、などについて述べます。また、国家によって捨てられた人々=棄民の歴史を考えたいと思います。
日本は、もはや工業立国ではないこと、日本はもう成長社会に戻ることはないということ、日本はもはやアジア唯一の先進国ではないということ。下り坂を下りながら「子育て中のお母さんが、昼間に、子どもを保育所に預けて芝居や映画を観に行っても、後ろ指をさされない社会を作る」しかない。
一年ほど前まで、記者をしてたのですが、大震災以降、東北に通い、そのなかで、なんとなく、取材が少しましになったかなぁと思うようになってきたんです。
もちろん、今までなんやったんやろ、という自責の念が当然伴いますが。
連載第三回目です。福島第一原発事故で、大きな被害を被った地域が、実は、戦後開拓で、必死の思いで、つくられた場所でした。今回は、その「必死の思い」、「どのようなご苦労」が、開拓に伴ったかを記します。
第2章では哲学の起源とソクラテス・プラトン・アリストテレスといった古代ギリシアの哲学者たちの思索を概観し、「対話」に意義を論じようと思います。第1節では、哲学的探求が誕生した時とその意義を、第2節では、最初の哲学者たちの思索(万物の根源とは何かの探求)を紹介します。
1安保法制以来繰り返されてきた懸念ですが、抑止力で平和を担保しようという発想に立つ限り、終わりのない軍拡へ突き進むことになってしまう。これで平和で安全な社会が構築出来る筈がない。
東日本大震災以降、東北の、まさに「現地」「現場」に通うようになって、今までの自分の「言説」に空虚さを感じるようになりました。いかに口で立派なことを語っても、実際、死ぬような思いをした人には届かない。むしろ、黙って横にいることのほうが、「高み」から高説を垂れるより、はるかに人を「支える」ことだと思いました。
リーダーは必要ない、必要なのは「サポーター」だと、思うようになりました。
僕が住む大阪の、1人の先例を紹介します。
哲学とは徹底的に自分自身で考えること、そしてその省察が他者に開かれている営みのことだが、それは「歌うようにではなく真に話すこと、目を覚ますこと、酔いから覚めること」(レヴィナス)。常に「眠りの商人」の誘惑を退けなければならない。
今回の原発事故で、この前まで「警戒区域」になっていた場所、またまだ「帰還困難区域」になっている場所を見ると、考えないとあかん事実が浮かび上がってきます。もちろん、福島第一原発の立地地、大熊町・双葉町は当然なんですが、そこから「あの日」の南東の風に乗って、阿武隈山系に、少し距離的には原発から離れているのにもかかわらず、高濃度汚染地域が南東から北西にかけて広がりました。
そして、その地域は……。その地域がどんな地域だったかを知れば、この事故の根深さが、よく分かると思います。連載二回目です。