名著を読む6 – カント『啓蒙とは何か』を読む2
命令に従うことは「私的」な領域であり、批判的に検討する立場こそ「公的」な領域だと主張するカントの「理性の公的使用」論を取り上げます。ここでは、啓蒙された人間の責任ある生き方と人間の自由について考えてみようと思います。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
命令に従うことは「私的」な領域であり、批判的に検討する立場こそ「公的」な領域だと主張するカントの「理性の公的使用」論を取り上げます。ここでは、啓蒙された人間の責任ある生き方と人間の自由について考えてみようと思います。
「門閥制度は親の敵でござる」とは福沢諭吉の言葉だが、能力や道理よりも血縁や地縁といった縁故が優先され、個人が圧殺されるどころか、社会が前に進まない。だからこそ、その負荷を否定し、「天は人の上に人を造らず」と宣言し、人間の平等・対等関係に基づく社会を構想したはずなのに、この国ではいまだに「縁故主義」が幅を利かせているのではないだろうか。
通常我々は、他者に依存しない自立した生活を範とするが、それ自体が妄想かも知れない。お金は様々な物質やサービスを数値化し、値札を貼るからお金が必要不可欠になってしまう。しかし数値化を退け、お互いに助け合うことで、お金への依存度を逓減できるのだ。
「万物の根源とは何か」という探求から哲学は始まったが、やがてさまざまな探求をする人間そのものへ焦点が移っていく。そこで登場するのがソクラテスだが、彼を語る前にソフィストたちの動向に目を向けたい。賢いとは、一体何なのだろうか。
なぜ「がんばっているのに上手くいかない」のか? それは自分自身に原因があるというよりも、時分自身が生きている環境にあるのではないか。がんばることは美しいと思うが、がんばる前に「ちょっと考えたい」。
なぜ、優秀な人材が、道理のみならず、法令まで無視して、権力への忖度を続けるのだろうか。それが結果として国民を欺く暴挙(=公僕としての自らのレゾン・デートル自体を否定することともイコール)になろうとも。
神話や宗教的権威に頼らず、考えたり悩んだりする人間の力によって世界を理解しよう――人々がそう思ったとき、哲学は誕生しました。世界認識や人間理解への問いを転換した哲学の誕生の意義について考えてみました。
啓蒙とは、何かを知っていることや知識が多いことではなく、「知る勇気をもて」、「自分の理性を使う勇気をもて」ということ。カントの哲学の一つの本質とは、人間が自由に独立独歩で思考して生きていくことではないかと考えてみました。
差別是正の活動から始まったポリティカル・コレクトネス。さしあたりの不正義を回復していく話し合いを求めていくことを、「ポリコレ疲れ」として切り捨てる感覚こそ人間の存在に対して不誠実なのではないか。
日本は、もはや工業立国ではないこと、日本はもう成長社会に戻ることはないということ、日本はもはやアジア唯一の先進国ではないということ。下り坂を下りながら「子育て中のお母さんが、昼間に、子どもを保育所に預けて芝居や映画を観に行っても、後ろ指をさされない社会を作る」しかない。