哲学入門36 – 3.3 前史(8) 功利主義
すべての個人を「人間」として捉え、幸福増進を社会の目的とする功利主義の哲学を、ベンサムからミルへの思想的深化として取り上げてみました。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
筆者は2003年4月から2016年3月まで足かけ13年あまり、創価女子短期大学において「哲学入門」を担当してきた。哲学とは自分自身の認識の更新であり、そのことが生きる標(しるべ)に練りあがる。哲学を「学ぶ」のではなく「哲学する」こと念頭に授業を創ってきたが、本連載では、紙上でそれを再現してみたい。常に考え学び続けていくことの一つのきっかけになれば幸いである。
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すべての個人を「人間」として捉え、幸福増進を社会の目的とする功利主義の哲学を、ベンサムからミルへの思想的深化として取り上げてみました。
沢山の質問を頂戴しましてありがとうございます。これから時を見て、いくつか答えていこうと思います。また質問は随時受け付けておりますので、何かありましたら「ウジケさんに訊いてみよう」として下さい。 では、せっかく哲学入門です …
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けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるが、あの最初に場合にもあのように、知恵を愛求し(哲学し)始めたのである。ただしそのはじめには、ごく身近な不思議な事柄に驚異の念をいだき、それから次第に少しづつ進んでは …
ヘーゲルは弁証法を繰り返すことで絶対知を認識できると考えたが、その歩みとしての進歩は一直線なのでしょうか。
近代哲学の完成者と言われるヘーゲルの哲学を、弁証法、社会、歴史、人倫をキーワードに紹介しました。ヘーゲルの哲学は思索の洞窟の中で生み出されたものではなく時代との格闘で誕生したことに留意したい。
カント哲学超克としてのドイツ観念論の試みそのものが近代社会の限界を示しているのではないでしょうか? 自我と自然との関係について考えてみました。
人間を限界づけたカントの批判哲学は後継するドイツ観念論によって徹底的に批判されることになる。本稿では、フィヒテとシェリングの超克を紹介する。あとがきのロマン主義批判は必見!
ジョン・ロックの認識論と政治哲学の深い結びつきについて論じてみました。私たちが「当たり前」と認識している社会構想もロックなしにはあり得なかったことを記憶したい。
近代哲学は、個人の尊厳の確立に知的格闘する営みであったが、当然その社会構想は政治哲学を生み出す。ホッブズ、ロック、ルソーを取り上げ、その政治思想を概観したい。
人間を定義づけた途端に非人間を生み出してしまうジレンマに対して、どう向き合えばよいでしょうか。二項対立を退け、非人間化しようすとする意志や思考と戦うしかありません。