哲学入門26 – 第3章「哲学と民主主義」 3.3 前史(4) カントの哲学
「私は何を知り得るか/私は何をなすべきか/私は何を希望することが許されるか」に注目することでカント哲学の骨格を描いてみました。人間は自身の限界を理解することで初めて自由な存在になれるのではないでしょうか。
大事な何かをその手に取り戻す実験場。政治、宗教、生活、歴史、経済など各界の論客たちが思い思いの言葉を綴ります。
筆者は2003年4月から2016年3月まで足かけ13年あまり、創価女子短期大学において「哲学入門」を担当してきた。哲学とは自分自身の認識の更新であり、そのことが生きる標(しるべ)に練りあがる。哲学を「学ぶ」のではなく「哲学する」こと念頭に授業を創ってきたが、本連載では、紙上でそれを再現してみたい。常に考え学び続けていくことの一つのきっかけになれば幸いである。
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「私は何を知り得るか/私は何をなすべきか/私は何を希望することが許されるか」に注目することでカント哲学の骨格を描いてみました。人間は自身の限界を理解することで初めて自由な存在になれるのではないでしょうか。
近代哲学の展開とは、人間の発見と、人間の限界の発見である。人間は自身が有限な存在であることを自覚しなければ、伸張できないのではないだろうか。
近代哲学の合理主義も経験主義も無限に万能な認識ではない。その限界を見定めて統合をめざすのがカントである。今回はカントの経験主義批判を取り上げ、統合の様子を見てみたい。
近代哲学の二大潮流はともに人間への注目から始まります。ルネサンスと宗教改革を経て合理主義と経験主義の隆盛、そして政治学の誕生を描写してみました。
西洋近代哲学は存在論から認識論への転回として始まった。その二大潮流が大陸合理論とイギリス経験論である。権威によらず理性と経験によって真理を探求するこの二つの試みはやがてカントによって統合される。
中世ヨーロッパとは知的にも技術的にも、精神的にも、「冥い」時代だったのだろうか。大学は中世後期に誕生するが、ここに注目すると、実り豊かな時代であったことが理解できます。
西洋中世の哲学を概観する。ここでは、①哲学は神学の婢だったのかを問い直し、②中世という時代認識を改めることに重点を置きながら概説してみた。暗黒停滞の時代ではなく豊かな緊張感のある時代であることを浮き彫りにしたい。
西洋哲学の二大源流がプラトンとアリストテレス。二人の真理観は大きく異なりますが、共通点もあります。それが哲学するということです。
ソクラテスの未完の宿題「真理とは何か」について、プラトンとアリストテレスはいかに応答したのか本稿では吟味したい。ある意味で、西洋哲学とは、プラトンとアリストテレスによってまかれた種子の発芽といっても過言ではない。
武器は無知の知という自覚と普遍的な真理への憧憬のみ。軽挙妄動のソフィストたちと戦ったソクラテスは、「特別な人間ではない」普通のひとでした。戯論に抗うことの意味を考えてみました。