名著を読む17 – カレル・チャペック『絶対製造工場』

◇ 「絶対」を「製造」する「工場」

 「あれがただのガスだったらなあ」マレクは拳を固めて怒りを爆発させた。「いいか、ボンディ、だからぼくはあのカルブラートルを売っ払わなけりゃならないんだ! ただただ、ぼくはあれに耐えられない、耐えられない、耐えられないんだよ!」マレクはほとんど泣かんばかりに叫んだ。「ぼくは、ぼくのカルブラートルがこんなことをしでかすとは予想もしなかった。こんな--恐ろしい--悪さを! 考えてもみろよ、これにぼくは最初から引きずりまわされているんだ! あれに近づく人は誰でも、それを感じる。きみはまだなにも知らないんだ、ボンディ。だが、僕の家の管理人はすでにあれの報いを受けた」
 「それはかわいそうに」社長さんは同情しながらいぶかった。「あれのために死んだのかい?」
 「いや、回心して人が変わったんだ」マレクは絶望的に叫んだ。
(出典)カレル・チャペック(飯島周訳)『絶対製造工場』平凡社ライブラリー、2010年、31-32頁。

SF(サイエンス・フィクション)を代表するキーワードのひとつが「ロボット」です。この造語を作ったのがチェコの作家カレル・チャペック(Karel Čapek、1890年-1938年)で、戯曲『ロボット』(千野栄一訳、岩波文庫、1989年)のなかで初めて登場とする言葉です。以後、ロボットは人造人間からガンダムに至るまで、SFでは欠かせないギミックになります。戯曲『ロボット』はSFのなかでは、古典的傑作とされています。

今回紹介する『絶対製造工場』もカレル・チャペックの作品です。『ロボット』と並び称される名作といってよいでしょう。

この作品では「絶対」を「製造」する「工場」を軸に、テクノロジーが孕む悲喜劇が描かれています。ある日、技師マレクは、物質を完全燃焼させ大量のエネルギーを得る機械「カルブラートル」を開発します。大学時代の知人で社長になったボンディにマレクはその技術を次のように語っています。

「ビジネスだなんて全然ちがうよ、わかるか? 燃焼だ! 物質の中に存在する熱エネルギーの完全な燃焼だ! 考えてみろよ、石炭からは燃焼可能なエネルギーの、ほんの十万分の一しか燃やしていないんだよ! ちゃんとわかっているか」

マレクは、いまでいう原子力発電の原子炉のようなものを発明するのです。マレクは自分の原子炉を「カルブラートル」と呼びます。この機械は、少ない物質を完全燃焼させることで莫大なエネルギーを生み出しますが、そのことで物質に閉じ込められていた「絶対」を解放してしまいます。この神のごとき「絶対」は目に見える形で現れるのではなく、ガスのように拡散し、人びとに霊感や啓示を与え、時には奇跡すら行わせてしまいます。

本書は、二つの世界大戦の間である「戦間期」に書かれた作品ですが、作品が描かれるほんの数年前までヨーロッパ大陸では、毒ガスが戦場に投入されました。いまでいう放射能は当時は未解明の分野でしたが、チャペックは、その毒ガスの生々しい記憶をたよりに絶対の拡散を創造しています。

今回は、話の筋も大切になってきます。若干、いわゆる「ネタバレ」になりますが、今回の「名著を読む」の読後には、改めてチャペックのこの作品を紐解いてほしいと思います。

◇ われわれは現実の神を計算に入れることに慣れていない

 「ポンティ、ぼくのカルブラートルはとんでもないものだ。この世の中を技術的にも社会的にも転覆させてしまう。生産物を限りなく安くする。貧困と飢餓を絶滅させる。われわれの遊星、地球をいつか凍結から守るだろう。だが他方では、副産物としての神をこの世に投げ込むのだ。誓って言うが、ボンディ、そのことを過小評価するなよ。われわれは現実の神を計算に入れることに慣れていない。その顕現がどう受け入れられるか、われわれにはわからない--たとえば文化的、論理的に。きみ、この点で人類の文明が問題なんだ!」
(出典)チャペック、前掲書、44頁。

物質本来がもつそのエネルギーを百パーセント解放することは、同時に神のごとき絶対を拡散させることになりました。カルブラートルはたしかに危うい動力源です。しかし、遣り手の金属会社社長ボンディには、それが石炭危機を乗り越える奇跡の一手として受け止められました。カルブラートルの利権を買い取り、その量産機は世界中にばらまかれることになります。カルブラートルの設置された工場で拡散される絶対は、自ら原料を補給し、製品を無限に製造し続ける永久機関の如く働きます。豊穣をもたらしつつ、絶対を同時に拡散し続けていきます。

ひとが絶対にふれると、回心して人がかわります。あるひとは、事業をなげうち、聖者として他者につくし、あるひとは奇跡でひとを導きます。

人間が、絶対的な善に導かれて、回心していくことは悪いことには思えませんが、どうも事情は違ってきます。絶対的な善が存在するのかどうかに関してはチャペックは懐疑的ですし、筆者自身は、仮に存在するとしても、そして、そのきっかけが外発的なものであったとしても、そこに内発的な契機があれば、まあ、許容範囲かなと思います。しかし、毒ガスの如き「絶対」羅患には、そうした契機は存在しません。

絶対なるものは一なるものだとしても、人間という多様な生き物は、その一なるものの解釈をめぐって、対立を深めていくことになってしまいます。人間に豊穣をもたらす永久機関が、豊穣をもたらすどころか、対立や分断を深めてしまうということは、絶対を不可避的に創造してしまうカルブラートルにだけ限定されている話ではありませんから、「絶対製造工場」というサイエンス・フィクションがきわめてリアリティのある話であることには、驚きを隠せません。

チャペックは、本書に「汎神論」という一章を割いております。一なる神としての「絶対」は、結局は、「日本の神」「スラブ正教の神」「仏陀」等など、それぞれのひとがよって立つ立場によって分断を深めていきます。回心が分断を生んでしまうことが「絶対」のもつ諸刃の刃ではないでしょうか。そしてそれぞれの立場に従い、人類はお互いに殺し合いをはじめてしまいます。

「貧困と飢餓を絶滅させる」はずの技術が、結果として人間を不幸に導いしてしまうというチャペックの想像力は、決して空想の話ではありません。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とは哲学者アドルノ(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903年-1969年)の言葉ですが、アドルノを四半世紀以上先取りしたチャペックのSFは、決してSFとは言えない預言性を帯びております。

チャペックは絶対をめぐる「最大の戦争」のあと、次のように報告しますが、「もちろん、われわれにはわかっている。何十年か後には、もっと大きな戦争がやってのけられるだろう、ということを。そう、この方面で、人類はますます高みに登りつつあるのだから」という一節には戦慄してしまいます。第二次世界大戦は、本書刊行から20年もしないうちに始まるわけですから。

チャペック自身のエピソードを挿話しておきたいと思います。チャペックは、全体主義や絶対ということがらの強調の恐ろしさを常に警告し、ジャーナリストとしても権力批判をやめることはありませんでした。祖国チェコスロバキア(当時)は、1939年、ナチス・ドイツによって占領されます。ゲシュタポによって危険人物としてチャペックは指定されていましたが、その3月、チャペックの死を知らなかったゲシュタポは自宅を襲撃しました。しかしチャペックはその4ヶ月に逝去していたのです。妻のオルガは皮肉をもってゲシュタポを迎え入れたといいます。

 ご覧いただきたい。これが歴史である。この戦いに従事した何億もの人間の一人一人は、それ以前には、それぞれの子どもの頃を、それぞれの愛を、それぞれの将来の計画を持っていた。ときには恐怖におののき、時には英雄になったとしても、常日頃は死ぬほどくたくたに疲れ、できれば平和にベッドの上で体を伸ばしたかったろう。(中略)
 それゆえに、わたしは言うのだ--自分たちが経験したのは最大の戦争だったのだ、という、その人たちのただ一つの誇りを、当時の人たちから奪ってはならない。
 もちろん、われわれにはわかっている。何十年か後には、もっと大きな戦争がやってのけられるだろう、ということを。そう、この方面で、人類はますます高みに登りつつあるのだから。
(出典)チャペック、前掲書、232-233頁。

◇ まず、なによりも人を信じなきゃいけない

「ビンデル、いかなる真理も誰かと争って勝ち取られるものじゃない。いいか、ビンデル、あの浚渫船(しゅんせつせん)の上のわれわれの神様はそんなに悪くはなかったし、メリーゴーラウンドのあんたの神樣だって悪くはなかった。だが、それでも消えちまった。誰でも自分自身のすばらしい神様を信じているが、ほかの人のことは信じないんだ。その人だってなにか善なるものを信じているのに。人はまず、なによりも人を信じなきゃいけない。そのことにほかの人たちもそろそろ気づくだろう」そんなふうにクゼンダさんは言っているよ」
(出典)チャペック、前掲書、273-274頁。

世の中に製品の豊穣をもたらすもののそれは同時に経済を破綻させ、「絶対」を自らの神と仰ぐ人々の間では、その解釈をめぐる「最大の戦争」が引き起こされてしまいました。人々の思い描くユートピアがデストピアへと転落するその過程が本書の醍醐味です。

「人間は幸福を願いつつも、なぜゆえに不幸へと転落してしまうのか」

これは、古来より繰り返されてきた人間にとっての大問題です。戦争のあと、別々の解釈をしていた二人のやりとりを紹介しましたが、結局は、「まず、なによりも人を信じなきゃいけない」ことに尽きるのではないかと筆者は考えられずにいられません。

白熱教室で有名なハーバード大学の公共哲学者マイケル・サンデル(Michael Sandel、1953年-)の『それをお金で買いますか』(ハヤカワ文庫)が数年前に話題になりました。市場経済の人間世界全体への浸透に継承を鳴らし、その議論の土台を提示した哲学書です。サンデルは人間そのものから経済が遊離してしまうことの恐ろしさを提示しますが、いくら論理的に正しくても、その正しさの追求が、等身大の人間からかけ離れてしまったものになってしまうとすれば、それは人間そのものへ刃を向けてしまうことになります。

チャペックは、市場経済の恐ろしさを本書で直接指摘するわけではありませんが、絶対を巡る人間の相互不信と対立には、同じようなプロセスのようです。

そういえば、絶対に羅患しなかった稀有なる人びとが本書中盤で登場します。「絶対の浪費熱を身をもって食い止めた人は誰か、世界市場の恐慌の最中にあって泰然としていた人は誰か。無為に手をこまねいていることなく、軽挙妄動せず、「自らの立場に忠実に留まっていた」人は誰か? その人は誰か、知ってるかい?」

「これぞチェコの百姓、農民で、われらを養ってれる人!」

なのです。

楽をして儲けるのではなく手で働くひとをたたえた、トルストイ(Ru-Lev Nikolayevich Tolstoy、1828年-1910年)の「イワンのばか」を彷彿させる挿話です。

さて……。
「人間は幸福を願いつつも、なぜゆえに不幸へと転落してしまうのか」というアポリアを乗り越えるヒントは、「人はまず、なによりも人を信じなきゃいけない」っていう一点に収斂していきますが、具体的にはどのようなことになるでしょうか。先に引用した文章に続くところに、その具体例が示されております。ここはそのまま、チャペックの言葉に耳を傾けてみましょう。

……人はまず、なによりも人を信じなきゃいけない。そのことにほかの人たちもそろそろ気づくだろう」そんなふうにクゼンダさんは言っているよ」
 「うん。その通り」ブリフ氏が言った。「人は、たとえばほかの信仰は悪いものだと考えたっていいけど、その信仰を持っている人を悪い、下品で、いんちきな奴だと考えちゃいけねえ。それは政治でもなんでもそうだがね」
 「そして、そんなわけで、あれだけの大勢の人間が憎しみ合い、殺し合ったんだ」ヨシュット神父が言った。「いいかね、誰かが持つ信仰が大きければ大いほど、その分だけ、それを信仰しない人たちを激しく軽蔑するようになる。とはいうものの、最大の信仰は人間への信仰だろうな」
 「誰でも人類のことはとてもよく考えてるんだが、個人個人については、それはない。おまえを殺してやるぞ、でも人類は救ってやる、ってわけだ。それはいいことじゃないね、神父さん。この世は悪くなるだろうね、人が人を信じようとしない限り」
(出典)チャペック、前掲書、274頁。

〔more study〕

まず紐解きたいのは、冒頭で紹介した『ロボット R.U.R.』(千野栄一訳、岩波文庫、1989年)ですが、筆者は、なんといっても『山椒魚戦争』(栗栖継訳、岩波文庫、2003年ほか、最新訳は栗栖茜訳『サンショウウオ戦争』海山社、2017年)がおすすめです。前者は人間に役立つはずの人造人間が人間を破壊に導くというSFですが、後者は、イデオロギーや民族対立の不幸を描く作品で、『絶対製造工場』と同じく、決してSFとは思えない人間の悲劇を扱った作品です。幸福への願いを不幸へ反転させない視座を学ぶことができるのではないでしょうか。
チャペックの作品はかなり翻訳されています。全六巻からなる『チャペック小説選集』(成文社、1995-1997年)ほか、『チャペック戯曲全集』(八月舎、2006年)は、その多様な作品を網羅的に集めたものです。
愛犬家のチャペックは日常生活を描くことにおいても卓越した才能があり、愛犬との記録である『ダーシェンカ』(伴田良輔監訳、新潮文庫、1998年)や『園芸家の一年』(飯島周編訳、平凡社ライブラリー、2015年)は、戦う作家の以外な一面を垣間見せてくれます。

執筆者プロフィール

氏家法雄
氏家法雄アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者
氏家法雄 アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者。1972年香川県生まれ。慶應義塾大学文学部文学科(ドイツ文学)卒。立教大学大学院文学研究科組織神学専攻後期博士課程単位取得満期退学。鈴木範久に師事。キリスト教学、近代日本キリスト教思想史、宗教間対話基礎論を専攻。元(財)東洋哲学研究所委嘱研究員。千葉敬愛短期大学(倫理学)、創価女子短期大学(哲学)、創価大学通信教育部にて元非常勤講師。論文には「姉崎正治の宗教学とその変貌」、「吉野作造の『神の国』観」、「吉満義彦の人間主義論」など。ええと「うじいえ」ではなく「うじけ」です。