名著を読む3 – 池波正太郎『鬼平犯科帳』を読む

 「いや、どうも、こんなにしていただいたのじゃあ、わるうございますねえ」
 恐縮しながらも明神の次郎吉、わるい気もちではなかった。
 行き倒れの坊さんの始末をしたのは、はじめての次郎吉であるが、これまでには小さな善行を何度もつみかさねてきていて、そのたびに、人びとから感謝されるときのうれしさは、

 (こいつ、たとえようもねえ……)

 ものなのである。
 他人のものを盗み取る稼業ゆえに、盗(つと)めをはなれているとき、他人へつくす親切には骨惜しみをしない。
--池波正太郎「明神の次郎吉」、『鬼平犯科帳 8』文春文庫、2000年。

◇ これから読書に挑戦しようというひとにうってつけのシリーズ

読書はしないよりした方がいい。だけど何から読めばいいのかしら?

読書への意欲はあるものの、読書体験がないばかりに、読書を躊躇してしまう学生さんをこれまでたくさん見かけてきました。正直、そう、迷っているならば、迷っているうちに一ページでも読んだ方がいいとは思いますが、そう思ってしまうのは、やはりある程度の読書量を経験した人間の上から目線の教師然とした冷厳なものいいかも知れません。ちょっと反省ですね。

健康を維持するためには、ジョギングのようなスポーツに継続的に親しむことがいいとは思いますが、いきなり42.195キロを走破しようというのは無理な話です。読書も同じで、いきなりドストエフスキーを読んでみようと思っても、その登場人物の名前で混乱したり、ゲーテを読み始めても、その筋書きの展開に置いてけ堀にされてしまうこともしばしばあります。いきなり40キロは走れませんから、1キロ歩いてみるところからはじめるしかありません。大きな山に登るには、ある程度低い山で練習を繰り返してから挑戦しなければ遭難してしまいますが、読書も同じことだと思います。

では、読書経験が殆どないひとは何から読み始めればよいのでしょうか? 筆者は、間違いなく池波正太郎先生の『鬼平犯科帳』をおススメしてきました。

二代目中村吉右衛門さんの演ずる「長谷川平蔵」の名演を、テレビ版の「鬼平犯科帳」で見られたことのある方もいらっしゃるかも知れませんが、そう、その原作です。この話をすると、「お父さんがよく見ていたアレですね!」という反応もいくつかありましたので、テレビで馴染んでいる方もいらっしゃると思いますが、そう、その原作です。

なぜ、池波正太郎先生の『鬼平犯科帳』を読書をこれまで全く経験したことのない人に薦めるのですかって?

はい。「圧倒的に、面白い」からです。

とにかく「騙されたと思って読んでご覧なさい」。読後の充実感を100%保証したいと思います。

「圧倒的に面白い小説や作品は他にもたくさんあるじゃないか」という意見もありますね。

はい、あります。しかし、筆者はあえて池波正太郎先生の『鬼平犯科帳』をおススメします。

◇ 読書の醍醐味を実感させる名作

『鬼平犯科帳』は池波先生が1967年から足掛け20余年、『オール読物』に連載された傑作時代劇(捕物帖)で、主人公の火付盗賊改方の長官・長谷川平蔵は実在の人物といいます。いわゆる奉行所は、刑事のほかに今で言う東京都庁のような行政府の役割を果たしたのに対して、火付盗賊改方は、凶悪犯を取り締まる専任の役所として臨時に設けられていた役職で、長官を務めた長谷川平蔵の容赦のない取締は、盗賊たちを震え上がらせ、「鬼の平蔵」とあだ名されたそうな。

概要はここまで!

作品の中身は自分で確かめてみましょう。ここで言及することほど「もったいない」ことはなく、読書の楽しみを奪うというものですから。

さて、あえて池波先生の『鬼平犯科帳』をその他の古今東西の文学作品を差し置いてお薦めするのか話したいと思います。『鬼平犯科帳』は文庫本で全24巻の大部の連載小説になりますが……ヴィクトル・ユーゴーの畢生の大著『レ・ミゼラブル』の邦訳がだいたい4分冊ですからその「大部」ということを想像するだけでも驚くほどの分量ですが……、ひとつひとつの作品が読みやすい分量になっているということです。もともと月刊小説雑誌に連載されたこともあり、遅読の方でも一つの作品を読み終えるのに30分もかかりません。それぞれの独立したストーリーが時間の経過とともに進み、ときには複雑に絡み合い連作となり、時には時間を戻しながら話に厚みを加え、江戸の四季折々の情景とともに、物語が進んでいきます。

作品の内容も大切ですが構成が抜群に素晴らしいのが『鬼平犯科帳』の特徴と言ってもよいでしょう。だからこそ「読書をこれまで全くしたことがない」ひとが「挫折」し難いという訳です。

30分程度の読書で、一息入れる。そしてまた次の作品へとページをめくっていく。最初に読書は登山のようなものだから、練習が必要といいましたが、読書に親しむためには、そして、読書人になることで一番大事なことは、読書を生活の習慣へと鍛え上げていくということです。その絶好の材料になるのが『鬼平犯科帳』をおいて他にはありません。

最初は1日30分の読書が、同じ分量で20分になり、1日1話読んでいたのが2話になり、3話になっていく……。この繰り返しが、「全く読書をしたことがない」ひとを一流の読書人へと鍛え上げていくわけです。

最初に『鬼平犯科帳』の構成の上手さというハードの側面に言及しましたが、いくらハードが良くても、その中身、すなわちソフトのほうがいまひとつだと、意味はありませんよね。ソフトに関しても太鼓判をおしたいと思います。

主人公の長谷川平蔵は、「鬼の平蔵」とあだ名された盗賊たちにとっては恐ろしいお役人ですが、その素顔は義理も人情も心得た苦労人。作品は「鬼の平蔵」を軸にしながら、さまざまな世の中の出来事を描き出し、大げさな表現かも知れませんが「人間とは何か」を読み手に学ばせてくれます。

「人間とは何か」などと言ってしまうと、それこそ「全く読書をしたことがない」ひとを震え上がらせてしまうかもしれませんが、作品では、江戸の情緒や季節感、折々の食生活という小道具やディテールが臨場感をかき立て、読んでいるうちに、読み手を江戸の町並みへと誘うほどに錯覚させるほどの面白さです。

小説として断然面白い!

これまで読書とは全く無縁だった人に手にとって欲しいシリーズです。

◇ 名言は自分で探そう。

「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」
--池波正太郎「谷中・いろは茶屋」、『鬼平犯科帳 2』文春文庫、2000年。

『鬼平犯科帳』の著者・池波先生のことを熱狂的に崇拝する読者のことを「池波狂(いけなみきょう)」と呼びます。これは「池波教」をもじったものですが、筆者もそのひとりで、文章でも「先生」と敬称します(※)。
※尊敬するひとを「先生」と呼ぶことの意味については、内田樹さんの『先生はえらい』(ちくまプリマー新書、2005年)で詳論されております。こちらも併せてお読みください。

筆者もこれまで『鬼平犯科帳』を30数回全巻読み直しましたが、その都度、発見の連続です。「池波狂(いけなみきょう)」という言葉があるほどに、読者をひきつけてやまないその作品群は、珠玉の名言の宝庫といってよく、ページを進めるだけでも、それは、まるで宝探しの連続と言っても言い過ぎではありません。

しかしここで注意しておかなければならないことがひとつあります。「池波狂」という言葉が象徴するように、その真髄やエッセンスを語る関連著作も多く、言ってしまえば「名言集」の如き著作が山のようにあります。もちろん、これは池波先生の作品だけに限定されるものではなく、ありとあらゆる古典・名著に随伴する宿命(宿痾)かもしれませんが、それをつまみ食いするのは「みっともねえ」「およしなせえ」ということです。『鬼平犯科帳』に習えば、本格派の本物は、盗みのために何年もかけ下準備をし、「一、盗まれて難儀をする者へは手を出さぬこと」、「二、つとめするときは人を殺傷せぬこと」、「三、女を手ごめにせぬこと」という。盗みの「盗みの三カ条」をきっちりと守り、おつとめをします。この本筋の盗人と対極にあるのが、「急ぎ働き」「畜生働き」と呼ばれる急いでやる盗みで、こういう手間ひまを省いて、証拠隠滅のためには殺生も厭わず女子供を手篭めにしてしまう急いでやるというものです。労苦を省き名言だけに飛びつくのは、読書における「急ぎ働き」「畜生働き」といっても過言ではないでしょう。

戻りますが、切り取られた名言は、それが切り取られたものであったにせよ確かに名言です。しかし、切り取られた言葉は確かに紛うことなき名言であったにせよ、それは文脈のなかで、その名言として立ち上がるべきものであり、その文脈と読み手との一対一の対話のなかで、名言として生命が宿るものです。ですから、池波先生の作品に限らずという話になりますが、名言集や○○のエッセンスというコンビニエンスな営みに真っ先に手を出すのではなく、自分で、名言という宝探しという労苦を経て、その宝物を手に入れて欲しいと思います。

名言集という後出しジャンケンで手に入れた宝物は、一見すると宝物に見えますが、それは宝物ではありません。文脈という活字との対話を経験せずに、名言集で「名言」だけを狙い撃ちするならば、それは「読書」ではありませんよね。

読書論のようになりましたが、と・も・か・く!

“明神の次郎吉”ではありませんが、読書という世界へダイブするなかで、

(こいつ、たとえようもねえ……)

っていう醍醐味を味わってほしいと思います。

ということで、筆者は、長谷川平蔵の如くありたいと日々剣豪の如き修行を重ねておりますが、実際のところは、相模の彦十と木村忠吾を足してニで割ったというところ。この意味がわかると面白いですよ~。

◇池波正太郎と『鬼平犯科帳』

『鬼平犯科帳』では、善人が悪事をなし、悪人が善事をなすという「この世の不可解」を鮮やかに浮かびがらせます。黒澤明の映画『悪い奴ほどよく眠る』ではありませんが、一見すると善人に見えるひとほど、私たちは警戒しなければならないのかもしれません。だからといって、善も悪も紙一重だから諸行無常として受け止めよといったような「あきらめ」と「自己肯定」の錯覚が日本社会では大いにもてはやされるフシがありますが、きっちりと問題から目を離さないところに、池波正太郎先生の厳しさと優しさがあります。
この池波先生の優しさと厳しさから、いつも想起するのが20世紀最大の悲劇であるホロコーストを体験したユダヤ人女性哲学者のハンナ・アーレントです。アーレントは「善人が悪事をなし、悪人が善事をなすという」という矛盾に対して徹底的な思索を遂行しましたが、矛盾への「居直り」を決め込む惰性と対峙したアーレントの営為は、池波先生の創作と交差するというほかありません。

◇more study

『鬼平犯科帳』のほか、『剣客商売』(新潮文庫)、『仕掛人・藤枝梅安』(講談社文庫)とあり、どの作品も「読書がはじめて」というひとにはおすすめです。この3大シリーズのほか、『忍びの女』(講談文庫)をはじめとする「忍者もの」は、大文字の歴史の影には必ず無名の人間の活躍があるという消息を明らかにするもので、その妙意、息飲むテンポは読者を手放しません。「誰もが知る通り、戦後最大の時代小説家は、同時に無二の随筆家でもあった」(恵文社一乗寺店・鎌田裕樹さん)との言葉もある通り、池波先生は清少納言も礼を尽くすのではないかと見紛うほどの随筆の名手。『日曜日の万年筆』(新潮文庫)、『男の作法』(新潮文庫)、『散歩のとき何か食べたくなって』(新潮文庫)は最低でも読んでおきたいですね。

執筆者プロフィール

氏家法雄
氏家法雄アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者
氏家法雄 アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者。1972年香川県生まれ。慶應義塾大学文学部文学科(ドイツ文学)卒。立教大学大学院文学研究科組織神学専攻後期博士課程単位取得満期退学。鈴木範久に師事。キリスト教学、近代日本キリスト教思想史、宗教間対話基礎論を専攻。元(財)東洋哲学研究所委嘱研究員。千葉敬愛短期大学(倫理学)、創価女子短期大学(哲学)、創価大学通信教育部にて元非常勤講師。論文には「姉崎正治の宗教学とその変貌」、「吉野作造の『神の国』観」、「吉満義彦の人間主義論」など。ええと「うじいえ」ではなく「うじけ」です。

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