みなさーん。シマノって、ご存知ですよね。
釣具のメーカーでもありますが、何と言っても、世界最大の自転車部品メーカーです。
日本では、ママチャリのほうが多いかもですが、基本的に海外ではママチャリは少なくて、マウンテンバイクやロードバイクみたいな自転車がメインです(もちろん、アジアで、現地の鍛冶屋さんが作ってるリクシャーみたいなのはありますよ)。
それらの部品の、7〜8割、特に、ツール・ド・フランスみたいな、競技用自転車のほとんどが、シマノ製の部品を、組み立てて作られているのです。自転車に乗ってる時のことを想像してください。
ある程度、こいだら、しばらくペダルを踏まなくても、前に進みますよね。競技用の一部のものは違いますが。
つまり、その間、車輪は、空回りをしてくれるわけです。
この仕組みを作ったのが、シマノなんです。1924年です。
まあ、実験的に作られたたものとか、不完全なものとかは、それまでにもあったと、思いますが。
シマノの本社工場は、僕の家から歩いて10分ぐらいのところにあります。
シマノの創業者、島野庄三郎は、今から100年ほど前に、鍛冶屋さんとして独立しました。
堺は、日本史でも習ったように、鉄砲鍛冶の技術が蓄積していて、鍛冶屋さんがたくさんありました。(真っ赤に焼いた鉄を、金槌で、叩いて、鍛える技術です。日本刀とか、鉄砲とか)。
「鉄は熱いうちに打て」というのは、まさに、鍛冶屋さんの仕事から来たことわざです。
それで、島野庄三郎は、鍛造で、フリーホイールを作ったのですが、もう一つの技術の開発もしています。
冷鍛造です。
(これも、すでに、研究では、ドイツとか、ヨーロッパでなされていたのですが。なかなか、具体的製品化が難しかった)
真っ赤に熱した鉄を打つのは、鉄が柔らかくなってるので、打ちやすいし、加工しやすいのですが、冷やしたときに、少し縮むとか、その時にひずむとかの問題があったのです。
常温で、鍛造できれば、理想ですが、なかなか難しい。
でも、島野庄三郎は、失敗に失敗を重ねながら、それを成功させたのです。
それが、今の、世界で圧倒的なシェアを持ち、未来企業として(ヨーロッパやアメリカでは、エコロジー&エコノミー&エシカルという視点から、自転車がどんどんライフスタイルの中に入ってきています)、成長がとまらない、シマノの原点です。
そして、もう一つの原点があるんです。
それは、シマノの本社がどこにあるか。
とても大きな会社ですよ。超近代的なビル(といっても、高層ではなく、オープンスペースをたくさんとった、エコロジカルな。写真では大きすぎて、樹木とかみえませんが)を何棟も有するビルをどこに作ったか。
(それは、もともとの庄三郎のころからの場所なんです。もちろん、僕の家の近くでもあります。大きくなっても、そこを動かなかったのはなぜか)
ここで、最後の画像みてください、(※編集部注:上部の画像)
「畜魂碑」です。シマノの本社の駐車場の外側あります。
つまり、食肉のために屠殺された牛(がメインで、豚も)たちの慰霊のための碑です。
シマノの本社は、もともとは、日本有数の大きさの被差別部落・舳松(へのまつ=今は、老松町となってます)の、屠殺場だったところ周辺に広がっているのです。
ここを、シマノは動きませんでした。
ここが、シマノの原点なんです。
この記事は、著者が2017年7月17日にFacebookへ投稿した記事の元原稿です。
執筆者プロフィール
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高校生時代から、ハンセン病、被差別部落、在日、沖縄、障がい者、野宿生活者など、さまざまな「社会の片隅で息をひそめて暮らす人々」の日常生活のお手伝いを。
2011年3月11日以降、東北太平洋沿岸被災地に通う。
大学院時代は、自宅を音楽スタジオに改装。音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J -Pop以外はなんでも聴く。
沖縄専門のFM番組に数度ゲスト出演をし、DJとして八重山民謡を紹介。友人と協力し、宮川左近シヨウや芙蓉軒麗花など、かつて一世を風靡した浪曲のCD復刻も行ったことも。
プロフィル画像は、福島県で三つ目の原発が計画されていた場所だったが、現地の人たちの粘り強い活動で、計画を中止させた浪江町の棚塩。津波で壊滅し、今は、浪江町の「震災ガレキ」の集積場・減容化施設が建設されている。
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