哲学入門では、実存主義とフランクフルト学派の批判理論を中心に、これまで第二次世界大戦後の思想世界を概観してきた。この後、世界を席巻するのが構造主義を端緒とする一群のフランス現代思想と呼ばれる思潮である。
その本論に入るまえに、ひとつ留意したい問題があり、コラムとして
構造主義(structuralisme)とは、端的に言えば、あらゆる事象を背景から支えるその仕組や構造を分析することで、私たちの認識転換を迫る思想的営みである。わたしたちが自明と理解している事柄が歴史的に捏造された木偶に過ぎないとすればどうだろうか。構造主義とそれに引き続くポスト構造主義は、これまでユニバーサルと思われてきた事柄が実のところはローカルなものにすぎないこと、そして野蛮と思われてきたことに文明を発見したのである。
そして、その営みは、哲学に限らず言語学や生物学、あるいは精神分析学や文化人類学など学問横断的に活況を呈し、いわば、思い込み(ドクサ)やイデオロギーを相対化する強靭なカミソリとして1960年代以降、広く受け入れられたのである。
イデオロギーの対立こそ人類社会一万年の不毛である。
騒乱の1960年代にそのオルタナティブを素描した構造主義が、その不毛の超克を模索する若者たちの圧倒的な支持を受けたことは言うまでもない。
しかしイデオロギーを相対化する強靭なカミソリに注目したい。
言うまでもなく普遍性や公共性とは実際のところ、さしあたりの作業仮説にしか過ぎないかもしれない。「大知識人」として批判されたサルトルの弱点を参照すれば、ヨーロッパを基準にした地域標準にしか過ぎない基準が、あたかも普遍的な道理として錯覚され、その立場から多様な価値観を批判する「眼差し」をフランス現代思想は問題があるのではないかと批判したのである。
要するに、ヨーロッパの文化人が、そして、ヨーロッパが文化の中心であり、その考え方が普遍的な道理であると錯覚されたということに尽きるのであるが、その先験的な錯覚をフランス現代思想は批判したのである。
これがイデオロギーを相対化した強靭なカミソリという側面である。
しかしである。
その錯覚の自覚のなきままに持ち上げられてきた価値観そのものを否定することは、イデオロギーを相対化する強靭なカミソリの役割ではない。
ここに注視すべきという話である。
極端な話で援用してみようか……。
一人ひとりの人間の生命は軽んじられてはいけないという考え方がある。
思うに、それは歴史や文化、あるいは風土によってその所作は異なってくる。しかし、それはサルトルが大声で叫んだように、ヨーロッパで排他的に創出されたフマニスムという価値観が独占したり、代弁したりするものではない。なぜなら、それはクロード・レヴィ・ストロースが暴き出したように、ローカルな発想をユニバーサルなものと錯覚した高慢に他ならいからである。
たしかに、近代以降、世界の標準は「西洋」の「文明」である。しかし、その鋭利な刃は、文明とはほど遠いものであったことを参照したい。アドルノに倣えば「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」ということを歴史は証明している。
では、その代替品として安易にオリエンタリズムを憧憬しながら東洋思想へ回帰すれば済むのだろうか?
それも拙速すぎるであろう。地域や歴史によって先験的に独占されるという発想自体が無効化された訳であるから、私たちは、無効化されたあとの「ゼロ」時代に新しい価値観を創造していかなければならないのである。
それがフランス現代思想の提案と知的格闘である。
それは、なんらかのローカルな地域や歴史をイデアとするのではなく、その負荷と負荷への反省を踏まえ、地域横断的な可能性を作り出せという促しである。
たしかに、フランス現代思想は、これまで絶対的、あるいは自明的と思われていたことがらがウソッパチに過ぎないことを明らかにしたという意味では、普遍的原理が先験的に実在する思想の虚偽を明らかにしたという意味で、相対主義への促しである。しかし、その相対主義への促しの中身とは、相対主義が絶対的なものであることとは同義ではないことに留意しなければならない。
フランス現代思想の立役者である、レヴィ・ストロースやミッシェル・フーコーやデリダが最も広く流通しているのが本朝である。そして、その受容の内実とは、構造主義のそのまた起点となるフェルディナン・ド・ソシュールに憑依した言葉遊びであり、その知的……というよりも堕知性というほうが正確ではあるが……遊戯は、相対主義こそ絶対であるという雰囲気を育んできたのがこの半世紀である。
一人ひとりの人間の生命は軽んじられてはいけないという考え方がある。
フランス現代思想は、その考え方が西洋の伝統的な知性に根拠付けることができないことを明らかにしたが、一人ひとりの人間の生命は軽んじられてはいけないという考え方そのものを否定したわけではない。
フマニスムの虚妄を明らかにしたフーコーは、思想的に対極に位置するサルトルとともに、監獄改善運動に従事し、あらゆる思想家と喧嘩し続けたデリダは、常にマイノリティの友人であり続けた。
一人ひとりの人間の生命は軽んじられてはいけないという考え方を根拠付けるものがナンセンスであったとしても、一人ひとりの人間の生命は軽んじられてはいけないという考え方を否定したわけではないことに留意しなければならないということである。
常にイデアを憧憬し続けたプラトンと異なり、その師匠であるソクラテスは、常に「自分ではそれは何かはわからないが」と付け加えつつ、つまり、普遍的真理の実在の一歩手前で躊躇しつつ立ち止まり、自己と他者の共通了解を創造しようと試みたが、普遍的真理の虚偽を暴き、私たちを「ゼロ地平」へと召喚し、そして創造への沃野へと擲ったのがフランス現代思想の骨太さである。
そしてそれを単なるケセラセラと誤解するとすれば、ソクラテスを死に追いやったソフィスト的な知性の自殺行為というほかない。
声高に叫ばれる「対案をだせ」式の相対主義を絶対化させる風潮こそサルトル「以前」の野蛮な時代なのかもしれない。
執筆者プロフィール
- 氏家法雄 アカデミズム底辺で生きるヘタレ神学研究者。1972年香川県生まれ。慶應義塾大学文学部文学科(ドイツ文学)卒。立教大学大学院文学研究科組織神学専攻後期博士課程単位取得満期退学。鈴木範久に師事。キリスト教学、近代日本キリスト教思想史、宗教間対話基礎論を専攻。元(財)東洋哲学研究所委嘱研究員。千葉敬愛短期大学(倫理学)、創価女子短期大学(哲学)、創価大学通信教育部にて元非常勤講師。論文には「姉崎正治の宗教学とその変貌」、「吉野作造の『神の国』観」、「吉満義彦の人間主義論」など。ええと「うじいえ」ではなく「うじけ」です。
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